自由奔放、あるいは嵐の中心。
そう評される彼女は、誰しも悩みなどないと思っていた。
けれど、嵐の中心こそが。
風が流れないということは、全てが手遅れになってから知ったのだ。
「ヒュトロダエウス!捕まえたよ!」
喧しい通る声は、ここエルピスの遠くまでよく響く。
視察とはなんだったのか。そう溜息を吐くのは当代のエメトセルク、ハーデスだ。
耳の長い創造生物を鷲掴みにして、彼女は自慢げに掲げる。
視線に気付いたのか、創造生物をこちらに向け、ゆらゆらと揺らしておどけるものだから、ますます頭が痛い。
「穴を掘る創造生物とは、なかなか面白いものだね。でも、よく捕まえたね」
感心したような口を効いているが、旧友は、笑いを堪えきれない、といったふうに小刻みに震える。
「何かおかしいですか?ほら、ちゃんと捕まってるじゃない、ねえハーデス」
「私に話を振るな」
きょとんとした顔で創造生物を揉むのは、当代アゼム。名をハイエと言う。
「おみみがながーいね、キミは良く聞こえるんだろねえ」
ゆらゆらと揺らされる創造生物は大人しい。真っ黒な瞳がどこを見ているのか判らず、居心地が悪い。
「ね、ね、ハーデス。キミが教えてあげなよ……っ、ふふ、ふふふ」
「なんで私がいちいち世話を焼かねばならんのだ。断る」
「何の話?」
ね、ね、何だい、とうろちょろするハイエは、どうやら自分のことに気づいていないらしい。
「このまま創造院に持って行ってもいいけどさ……ふふ、ふふふ」
「ああもう厭だ厭だ。お前はいつもそうだ、騒ぎ散らかすくせに後始末は私にやらせて……」
「だから何のはなしなのさーっ」
もう面倒で仕方ない。このままヒュトロダエウスの娯楽のネタになってるのも気が進まないし、何より無邪気に首を傾げるハイエを見てられない。
はあ、と一際大きく息を吐く。そのうち肺の空気がなくなるんじゃないか。そう思いながらもエーテルを練り、指を鳴らした。
銀色の水盆のようなものを宙に浮かせ、ハイエの眼前へと差し出す。
鏡面のそれは、よく物事を映すだろう。
「よく見ろ。貴様の顔面はその創造生物と違わぬくらい泥だらけだ」
しばしの間。
「ふ、ふ、あははは!」
一番に笑い出したのは、誰でもないハイエ。そのまま、捕まえた創造生物とくるくる回りながら、辺りを駆け回る。
「お前の掘った穴に潜ったもんね、そうかあなるほど、ははは」
なんだなんだとエルピスの蝶が舞い、辺りは小さな祭りのようだ。
「ねえ、エメトセルク」
ヒュトロダエウスはそっと友に話しかける。
「なんだ」
「羨ましいって思ってるでしょ。あの無邪気さ」
「誰が」
ふー、と息を吐く。ハーデスは眉間に深く皺を寄せた。面倒なことばかり持ち込む者だとは思っているが、羨ましいなどと誰が思うことか。
「ふーん。……僕は羨ましいよ」
創造生物と戯れるハイエを見つめながら、ヒュトロダエウスは呟く。
「戯れ言を」
「あんな無邪気な人、きれいなひと、放っておけないね」
「は?」
「だからさ、ハーデス」
振り返りもせず、ヒュトロダエウスは言った。そう、言った。
「あんな人、目を離しちゃ駄目だよ」
聞いておくべきだったのだ。
それに気付いたのはーーはるか後になる。
アゼムーーいや、ハイエから相談を受けるようになったのは、いつからだったか。
きっかけは、ミトロンとガイアのことだった。
ハイエは、ガイアと親しくしていた。先輩のように慕い、ちょっとしたお洒落とかなにやら、そういったささやかなことを分かち合っていた。
「それで、ヒュトロダエウス。ガイアはずっとミトロンの話をするんだ」
甘い果実を切り分けたものを口に運び、ハイエは不思議そうに話す。
「ガイアは、なんて言ってるの?まさか、自分で気づかないわけでもないだろうし」
「ガイアは……なんていうか」
口を尖らせて、ハイエは宙を見上げる。
これは、彼女が疑問を感じたときの振る舞いだ。
「二人で一つ、そういう人ができたらわかるよ、って」
「ふうん?」
「二人で一つ、かあ」
ふう、とハイエは溜息をついた。彼女にはとても珍しいことだ。
「何か思うところでも?」
何となく、ハイエらしく無いとは思った。天真爛漫 、自由奔放な彼女に、こういったことで思い悩むことがあるなんて。
「ボク、さ」
ぱき、とフォークの先の果実が割れる。赤い皮をした果実は、黄色い果肉を晒して器の上で転がる。
「ハーデスに嫌われてるのかな」
言葉を失った。いや、普段の自分だったら、けらけらと笑い転げて何を馬鹿な、と揶揄うことだろう。でも、今は。
理由を訊き出す言葉を紡ぎながら、自分は考えていた。
ハーデスがハイエに特別な感情で接していることなど、少しでも二人と親しくしていればわかる。
ハーデスは、あのように難儀な性格だから、特別に感じれば感じるほど邪険にするだろうことも、まあわかる。
しかし、それをハイエは嫌われていると感じているのだ。
二人とも馬鹿げている、と失笑することは簡単だ。ハーデスが素直にならないばかりに、感情が真逆に伝わることも。それに大真面目に悩むハイエも。
けれど、と考えた。
仮に、ハイエとハーデスが恋仲ーーそう、二人で一つ、になれば。
今のように、3人で戯れることもないだろう。くだらない話をからかって、笑ったり、拗ねたり、そんなこともなくなるだろう。
ーー嫌だな。
そう思ったのは、ほんの魔が差したのだろうか?
「……そうだね、ハイエ。ハーデスは、とても難しいところがあるから」
この罪は、やがて降り注ぐ罰となりても。
「よければ、話を聞くよ。ーー二人で」
果実を、齧ったのは。
世界が分たれて、幾年が経ったか。
アーモロート……の幻影は、今日も静かに眠っている。
目覚めよと、起きて、この私に応えよと。
いくら願っても。返事はない。
この世界の彼女の魂は、愚かで小さい生き物に宿っている。
ハイエというその少女は、あまりにも幼く。あまりにも愚かだ。
罪喰いを討伐するという徒労に追われ、光を溜め込み。
自らを滅ぼしてまで、そうまでしてこの世界に価値があるのか。
ああ、彼女の魂はなんと愚かな器に宿っただろう。
彼女の好んだ街を歩く。
この世界の者たちと違い、完全なる私たちは食事に凝る必要もない。だというのに、彼女は菓子や果実を好んで食べた。ヘルメスと共に甘い果実を収穫し、その調理法に試行錯誤することを楽しんでいた。
彼女の好んだ椅子の向かいに座る。そう、三人で私達はここで語らっていた。主に、くだらない彼女の冒険のことを。愉快な旅の話を。
ーーああ、彼女は旅が好きだった。
「エメトセルク、今日もそこで待っているのかい」
どきりとした。だが、ここで私に語りかけるのは幻影だ。この幻影はヒュトロダエウス。私のーー友だ。
「キミはいつもそこにいるね。折角なら彼女を連れてくればいいのに」
「……」
「寂しくないの?」
……戯れ言を。いや、ヒュトロダエウスはこういう者だ。
「ワタシはちょっと寂しいかな。いつも三人でいたから」
「いや、本当に寂しいのはキミじゃないかな。だって、いつも旅の帰りを待っていたでしょう?」
……馬鹿なことを言うな。エメトセルクの座に就いてから忙しくて仕方がない。
「エメトセルクの座に推されたのも、ハイエと一緒に色んなお願い事に応えていたからーー」
「頼む、今日は静かにしていてくれやしないか」
それっきり、彼の幻影は止む。
結局、自分の都合のいい記憶の世界だ。
都合の悪い真実。過去。それを思い出して曇天のような気分になった。
ヒュトロダエウスーーワタシと、ハイエが交際している。そんな噂が立ったのはいつからだったか。
勿論、それはハーデスの耳にも入っているだろう。
肯定はしなかった、けれど否定もしなかった。
世の中とは、案外あまりよく見ていないものなのだと改めて感じていた。
ハイエと共に二人で過ごすことが増えた。そして、身体の距離も近くに置かれることが多かった。
ーーいや、そうなるようにしているというべきか。
彼女の長い巻き毛を漉きながら、唇を啄ばむ。
仮面で秘せた生活とは真逆の、個を求め合う行為。
ハイエは夢でも見るかのようにそれを享受していた。ハイエの知らないことをいくつも教えた。
そして、ハイエにハーデスの話をすることを禁じた。
曰く、こういう関係にある間は互いのこと以外何も考えてはいけないのだよ。と最もらしいことを言い。
ーーハーデスに思いを伝えるときまで、きちんとできるようにならないとね。
ああ、そうだ。ハイエは未だハーデスに思いを寄せていた。
それも、純粋無垢な恋慕。今のような、ワタシと彼女の関係とは真逆の。
ハイエは、ワタシとの関係を未だ恋人とは思っていない。ワタシも、思っていない。
純粋無垢な当代アゼムは、ハーデスに幻滅されないようにワタシで恋を学んでいるつもりなのだ。
ああ、なんと滑稽なんだろうね。彼女も、ワタシも、そしてハーデスも。
ハーデスはワタシたちから疎遠になった、いや、多忙に自ら身を置き見ないようにしていた。
ハーデスは、ハイエの想いなどつゆ知らず親友と親友との恋愛に口を出さないつもりでいる。
ーー一番傷ついているのは、ハーデスだというのにね。
「ハイエ」
頬を擽り、背中に手を回す。
寝台に転がるように二人で寝そべりながら、怠惰を享受する。
ハーデスが欲しいのは、ワタシだって一緒さ。
滅多に見せない笑い顔も、苦痛に歪む表情も、悲哀に溺れる表情も。
全部全部、見せて。
ーーそれは、ワタシたちが友情で結ばれている限り、きっと見せてくれないと思ったから。
ハイエを傷つけるつもりはない。ハイエのことは愛おしいし、掌で抱きしめた心地は忘れない。
ーーだからこそ。
三人でいることを辞めたのだ。ーーこの怠惰な世界の暇つぶしとして。
流星の降る夢には、いつも彼がいた。
ソル帝と呼ばれしもの、あるいはーーアシエン・エメトセルク。
エメトセルクは、ボクの向こうの魂をずっと追っていた。
流星の降る夜、彼は光に溢れ瀕死のボクを抱き抱える。
「愚かなことをした」
そう告げると、彼はボクに唇を寄せる。
闇が光を飲み込み、熱病のような光の苦しみはボクの身体から消え失せる。
けれど、そのエメトセルクの表情は、ひどくつまらなさそうで、ひどく苦しそうだった。
そんな、夢。
「ボクは誰かじゃない。誰か、はもう居ない」
そう叫んで目を覚ますと、そこは昏い憂の底の街、亡霊の街、アーモロート。
エメトセルクのことを考えるとき、ボクはいつもここにいる、
エメトセルクの考えていることはわからない。分かりたくない、わかってしまいたくない。
彼は、きっとボクの中にある魂をひどく愛してしまった。辛く、苦しくなるような愛を。
「容易く解ったような口を利くな」
声は、街の残響か、それとも脳裏に焼き付いた幻聴か。それともーー彼の言葉か。
「ボクのことなんか、助けなければいいのに」
「助ける?笑わせる。私は私のやりたいようにやっているだけだ」
「じゃあ、なんで」
なんで。
そんなに裏切られたような顔をしていつも見つめるの。
ハーデスを討った。
これも夢か、記憶ならば。
エメトセルクの体に馬乗りになり、ボクは頸を締めていた。
「ボクは、あなたを殺す、殺す、あなたは……世界の、敵だから」
冷たく見下ろすエメトセルクは、しかし何も答えない。
「いつものように軽口を叩けばいい!挑発して、嘲って……ボクを嗤えばいいだろう!」
「……ゼ、ム」
はっとして、頸をきつく締める。頭の中ががんがんと痛い。ボクの中の魂が、言葉をくれと叫ぶ。
「ボクは、ボク、は」
ぼた、ぼたと涙が落ちる。誰の涙かわからないまま、めちゃくちゃの声を絞り出す。
「ハーデスも、ヒュトロダエウスも、どっちも、大事だった。嘘を、ついたことは一度もない。騙されたことも、一度もな、い」
「一番なんてなかった、ずっと一緒にいたかった」
「アゼム……もう、いい」
「お願いだから……っ、眠らせてっ……」
もういいんだよ、そう自分になのか、魂になのか。
背に携えていた槍を掴み、エメトセルクの胸に突き刺した。
ーーそれで、終わりだった。
呆然としているボクを、暁のみんなが取り囲んでいたのを憶えている。
返り血さえも残してくれない、愚かな男に何があったのか、ボクは知らない。
ただ一つ、あるのは。
ボクは、また愛した人を殺したという事実だった。
旅の始まりで出会ったシェーダーがいた。
初めての恋をしたボクは、初めて人を殺した。
日々の暮らしの中で、かけがえのない友人がいた。
友人を想うが故に、友人を壊したくなった。
冒険の中、想いを寄せる人がいた。
想いの伝え方を、世界の終わりまで終ぞ知らなかった。
何万年経っても、忘れられない人がいた。
忘れられない人に、忘れられない傷を置いてきた。
旅は、続く。
棘を背負い、古傷を抱え、戻らないものに想いを馳せて。
それでも、彼女は旅をする。
二つの魂は、隕石のように燃えながら。