私の身体は壊された。もっとも愛しかった人に壊された。だから、この生活もその報いなのだ。掠れた闇と冷たい床。吐き気のするほどの静寂と閉ざされた扉。私の世界はもはやこの狭い倉の中だけだった。
暑くもなければ寒さもない。かろうじて身長の何倍もある高さに開いた四角い窓からの光で日夜の区別だけはついていた。しかし、それだけだ。
今日もあの手がやってくる。私に触れる唯一の手が。
二重扉の一枚目が開く音と共に、鼻腔に流れ込む甘やかな香り。爽快感のある葉の香りに芳醇な果実を彷彿とさせる香りが入り交じり、花畑に迷い込んだような、いや花畑そのものが歩いてくるようなそんな香りの足音を感じながら私は黙って毛布の中の動きを止める。
「オルドリン、起きてる?」
二枚目の扉が薄く開き、いっそう香りが強くなる。
「『治療』をしに来たんだけど、大丈夫かな」
返事の代わりに身を起こし、下ろされる手に撫でられるままになる。冷たくて、小さな身体に見合わない大きな手。ブラニーだというには少々背が高くも感じるが、それでも十二歳かそこらの子供ほどの背しかない。そんな彼に飼われている私はなんだろう。そう一人ごちる。
髪を撫で回す手は次第に植物の生長を確認するような執拗な手つきになっていく。髪の一本一本まで、艶を確かめ、傷みや乾燥を調べるような管理者の手つき。真剣な眼差しで獣の耳の過敏な薄い肉まで摘ままれ私は身じろぎを思わず隠した。
そのまま手は頬に触れ、短く切りそろえられ磨かれた爪先が唇の膨らみをなぞる。親指の腹で乾いた粘膜の形を確認し、何か言いたげに離れた。
こんな手つきのまま脱がされてはかなわない、そう判断し自分からボトムスに手をかけた。彼の言う『治療』を受けるために、下着まで引き下ろすとシーツの上に身を横たえる。あまり手間はかけたくない。ましてや、恋人同士のように睦まじく服を脱がされるようなことは嫌だった。ただでさえ誤解を受けやすい行為なのだ。
私の行動を合意とみなしたのか、アポロは足下に身を屈め薬瓶を開けた。立ち上る花と香油の香り。大きな手に掬い取ると、そのまま脚の付け根の割れ目に撫でつけた。
「あっ……ぐ、う、ううっ…」
噛みしめた歯の隙間からくぐもった悲鳴が漏れる。陰唇の周りにある裂傷にクリーム状の薬が沁み神経を泡立たせるような刺激がびりびりと走る。もう大分経った古傷とはいえ、今も引き連れて出血するような傷に薬草を塗り込まれて楽なはずがない。
苦しさを堪えシーツを掴んでいると、入り口の花弁を解していた指がつぷりと音を立てて内部へと入ってきた。隘路をかき分けるように中指を進められ、冷たい薬液が塗り込まれる。
「ひっ、あ、あああっ……!痛、ぐ、うああっ……」
外部以上に裂傷の多い内部を遠慮がちに撫で回す指先。狭く閉じられた道が押し広げられ粘膜が異物をきゅっと締め付けるのを嫌でも感じてしまう。伸縮に伴い古傷も動かされ、思わず痛みに顔を歪めた。
「ごめん、痛いよね。……優しく、するから」
こともあろうに指を増やしながら、アポロは非道く気遣った声色で耳元に囁く。彼の左手はいつの間にか身体を這い、私の服の下の乳房を愛でるように揉みしだいていた。女の性か、張った胸を解すように揉まれいつの間にか尖った乳頭を爪先で弾かれると脳髄に甘い痺れが走る。胎内の痛みには薬効が出てきたのか熱い痺れが疼き、胸の柔らかな快感と入り交じって苦しい。
「はや、く、終わらせて……辛い」
やっとのことで絞り出せた言葉にはっとしたのか、アポロは性急に手を離すと慌てて私の身支度を整えた。まだ息の荒い身体から離れ、気まずそうな背中で水を注ぐ。
私には彼の表情はわからない。治療中、どんな顔で私に触れているのか今までずっとわからなかった。ただ、今日一つ言えるのはアポロの治療は次第に別の意味を求め始められていることだった。
胸に触れられたのは初めてだった。今まではずっと、形式だけでも事務的に下半身にしか触れずにいた。それが、今日は胸にまで愛撫が及んだ。それは少しでも苦痛を和らげるためという配慮だったのかもしれない。しかし、アポロから情念のようなものが湧き始めているというのは毒のようにその身に感じ始めていた。
彼もまた多くの男達がそうであるように肉欲の対象として私を買ったのだろうか。この治療もその一環だろうか。それならばそれもまたこの身の運命として覚悟していたことだった。
彼の偽善に酔っているともいえるような言動はある意味で安堵すべきものでありある意味でとても恐ろしかった。だから、アポロに対し尾を振り媚びを売ることをしようと思っても行う気になれなかった。
彼の、私への憐憫の感情が無くなれば、私は捨てられるであろうから。
それはけして自由になるという意味ではなく、死に繋がる現実的な恐怖として私の中にあった。 アポロの注いだ水で火照った身体を冷ましているうちにアポロは倉から姿を消していた。
倦怠感と微睡みの中、彼に塗り込まれた薬が浸透してくるのを感じる。喜んでいいのか複雑な気分ではあるが、彼の用意した薬草のクリームはとてもよく効いているようだった。塗り始めて数日で出血はほぼなくなり、最近は身体が動かせる程度に痛みも収まっている。薬草士として重宝されていたというアポロの言葉はあながち嘘ではないようだと実感する。
また一眠りするころにはもう少し良くなっているだろう。どのみち、この狭い倉の中では何もすることが無い。こういうとき虜囚は本でも欲するのかもしれないが、私には生憎読書の習慣はまったくなかった。
できることなら、と呟く。
そう、できることなら野山を駆け回り狩りをしたい。分身のように愛する鷹と狼と共に獣を追いたい。それが叶わずとも、せめて動物たちの体温に触れたかった。
ハウンドと呼ばれ、動物達と獲物への興奮を胸に命を賭ける生活。
「ニール、コリンズ……」
妹のように愛していた鷹と狼の名を呟くと、瞼の裏に凛々しい姿が浮かぶ。
彼らは今どうしているだろうか。こうして自分が売られてから、当然のごとく消息はわからなくなっている。当たり前のように過ごしていた日々が去り、今更の寂しさが胸の中を埋めた。
差し込む日差しが陰り、星空が四角い窓を埋めた頃だった。
「……オルドリン、さん」
二重扉が開く音。細く開いた扉から覗いた姿は、アポロよりずっと背の高い男だった。
「あなたは……?」
赤毛に眼帯の男は、ぐるりと倉の中を見回し長く息を吐く。
「ディエゴ。アポロのギルドの人間。……大きな声、出さないでくださいね」
男は私の横にしゃがみ込み、まじまじと顔を見つめてくる。癖っ毛の長い髪が揺れ重装備なコートに付いたプレートが床に当たり音を立てた。
「アポロに言われてきたの」
買われてからずっとアポロと自分の二人きりだった。アポロは意図的に他の人員の話はしなかったし、当然会わせようとなどしなかった。
「いや、アポロには秘密です。……オルドリンさんに、会いに来た」
「……私に会いに来ても、何もないわ。私自身、時間を持て余してしょうがないのよ」
「そうだと思って」
男は上着のポケットをもぞもぞとまさぐり始め、思わず何が出るのかと身構えた。しかし、ポケットから取り出されたのは四角いケースに入ったカードらしきものであった。
紙の箱には娯楽的な絵柄でイラストが描かれている。目を白黒させている私に男は何か失敗したのかとあたふたと慌てて紙の箱を開ける。
「その……ずっと独りぼっちだとつまらないと思って、このカードゲーム、俺の兄弟とよくやってて……なんというか、オルドリンさんの気晴らしになれば」
仰々しく声を潜めてやってきて、要は私が一人で寂しがっていないかを心配していたらしい。物々しいコートの男とその小さく滑稽な絵柄のカードとの対比が可笑しくて、思わず吹き出した。
「いいわ、あなたの言うとおり私は暇で仕方がなかったの。よければ、その遊びを教えて欲しいわ」
私の言葉に光が差すようにぱっと表情を緩め、男はそそくさとカードをカーペットの上に広げ始めた。
男の名はディエゴ・リード。アポロのギルドの一番の新入りで、炊事係、ドラグーン。兄が三人、弟が一人。そんなことを皇帝を取り合うカードゲームをしながら話しているうちに知っていった。
最初のうちはあまりこういうものに馴染みのない自分が何度も皇帝の図柄を逃していたが、運の要素が強いのか次第に他の図柄の役割に慣れてきて何度か勝てるようになっていた。
何度目のゲームだろうか、遊牧民のカードを山札に捨て、勝利を告げるとディエゴは大きく延びをして負けを宣言した。
「少しは気晴らしになったら嬉しいなあ。……俺は、オルドリンさんがこんなとこで閉じ込められてるの反対、なんだよ。……女の子を閉じ込めて、それで人助けになんてなってるわけない」
カードを手にしたまま、ディエゴはぽつりと言葉を漏らした。眼帯に隠れていない右目が山札に捨てられた虜囚のカードを見つめる。鎖に繋がれた虜囚の図案は剽軽な悲しさをもって紙の上に焼き付けられている。
「……でも、私には行くところがないわ。私が街を出歩いたら、私を売った人間にまた捕まるかもしれない」
口を開いて出てきたのは、何故か現状を肯定する言葉だった。この男に乞えば、外に出られるかもしれない、そう胸の中でよぎるも漠然とした不安があった。
「でも、ちゃんとオルドリンさんを俺たちで雇えば守れると思うんだ。さっき言っていただろう、君はかつて狩人だったって」
カードで遊びながら、少しばかり自分の話もした。他愛もない故郷の森とニールとコリンズの思い出話。アースランのディエゴには珍しい話だろうと思って語った話だ。
「弓も、獣もいないハウンドにできることなんてないわよ」
半ば諦めた形でディエゴをいなす。真摯な優しさが胸に痛かった。
「……それが、あればいいのか」
しかし、ディエゴの反応は違っていた。
思い立ったように立ち上がると、彼は忙しげに倉を後にした。
数日経った日だった。
「オルドリンさん。……俺だよ、ディエゴだ」
いつものように戸が開き、新鮮な香りが鼻腔を刺激する。しかし、今日に限っては違う香りが混ざっていた。
大きな風を切る羽音。獣の荒い息づかい。慣れ親しんだ音と薫りに直感した。
「ニール!コリンズ!」
もつれる足で駆け寄ると、まず大きな狼の体躯が胸に飛び込んでくる。暖かな体温と柔らかな毛皮を抱きしめると嬉しそうに尾を振った。親しげに腕を甘くつつく嘴は山吹色。
「良かった、合っていた。この子達がオルドリンさんのかつての相棒で間違いないか?」
肯定の意味でこくこくと頭を振ると、ディエゴはポケットから一枚の紙切れを取り出した。
「……アポロからこっそりこれを拝借して、あなたが売られるより前に捕まっていたところを突き止めたんだ。ばらばらに売られていると思ったけど、このニールもコリンズも、誰にも懐かなかったみたいで面倒だから連れて行けって」
二束三文だったのは心苦しかったけど、と付け足しディエゴは狼を撫でる。何よりも会いたかった愛する相棒たち。彼らも私と一緒に身を売られ最後に目にしたときは肉にして処分されるかもと囁かれていた。いったいどれだけの苦労をして見つけてくれたのだろうか。目頭と鼻の頭にじわりと熱が浮かび視界が滲む。
「ありがとう……ありがとうディエゴ。まさか生きて会えるなんて思わなかった……ニールもコリンズも、寂しい思いをさせてごめんなさい……」
「いいよ、大切な相棒だったんだろう。良かった、オルドリンさんが喜んでくれて」
再会の喜びにしばし浸りながら、ふと胸に浮かんだある疑問があった。これからこの一羽と一匹と暮らしていけるかどうか、その生殺与奪を握る彼を。
「アポロは、このことをなんて……?」
不安だった。今の自分の身柄はあのブラニーの男が握っている。恐らく経済的な負担も彼が背負っているのだろう。大型の狼と鷹。一羽と一匹が増える負担はかなりのものになるはずだ。しかし、返ってきた答えははっきりとしないものだった。
ディエゴ曰く、アポロからは反対はされなかった。ただ喜ばれもしなかった。無理に引き離すようなことにはならなさそうでほっとしているが、むしろアポロという男のことがわからず疑念ばかりが膨らんでいた。
「……オルドリンさんは、これでいいの?その、外に出たいとか、そういうのをもっとアポロに言わなくて」
「いいのよ。それに、私に帰るところなんてないから」
どういう意味、と聞き返すディエゴを無視してニールを撫でる。ごめんね、あなたも大空を飛びたかったでしょうに。こんな狭いところで、私と一緒に暮らすのよ。私が、過ちを犯したばかりに。
「俺は、……俺は帰りたいよ。俺はこの世界じゃない、もっと違う理の世界から来た。同じように世界樹があって、でも魔法なんて無い世界から来たんだ。兄弟も、両親も置いてきてしまった。だから」
「だから、私にも同じように親兄弟がいるという話かしら。……ごめんなさいね、あなたの願みを代わりには叶えられないわ」
だって、そんな大切な人たちがいたら、売られているはずが無いじゃない。
「良かったわね、帰りたい処があって」