私たちは森で育った。森に育まれ、時に試練を与えられ、そして命を捧げる。私たちは森の子だった。
ブラッドウッドの森と呼ばれるここは深く暗く、そして豊かであった。北の種族との争いからも遠く、西の民からの干渉も受けない、私たちは自由であった。
私たちは、猟犬や鷹と共に生きる。大地と天に恵まれた生まれつきの逞しい体をもってしても、この森は生ける者に対し厳しい。だから二本足で立つ私たちよりさらに大地に近い猟犬と、大空に近い鷹の助けは欠かせないものだった。
私たちの群は我が子が産まれてすぐ、月齢の近い雛と仔犬に魔力回路を繋ぐ。魔力を注ぎあうことで獣は長命と卓越した知能を手にし、私たちは獣の心を知り意志を通わせる術を得る。
そして、十にも満たない頃には親から離され一人と一羽、一匹で生きていくことを余儀なくされるのだった。多くの子供たちは生まれつきのか細い魔力回路で二体も養うことは困難で、人生の伴侶とすべく獣を選び二人で生きることを決断する。
その決断ができなかったのが、私だった。
ニールとコリンズ、一羽と一匹はどちらも離れがたい最愛の親友であり妹であった。魔力回路を切り離せば彼らは理性のない動物に戻り自然の摂理に淘汰されるであろう。実際、魔力回路を切り離したばかりの獣は大人たちにとって格好の獲物だった。私は選択のできぬまま歳を重ねてしまった。
広大な森の中、西の民からハウンドと呼ばれる私たちはそれぞれの狩り場を作っていた。縄張りを侵せば同種の民と言えど容赦はしない。それが群の掟であり生きるためのルールだった。
しかし、親から切り離されたばかりの若い個体はそうもいかない。まだ縄張りを持たない若い個体は、集まって小さな集落を作っていた。縄張りをある程度共有し、獲物を分かち合う。そうしてなんとか命を繋ぎ、狩りを覚えた頃に一人、また一人と離れ自らの縄張りを作っていく。それもまた、生きていくための森のルールだった。
私も例外ではなく、若い群の一員になっていた。若人ばかりの、稚拙な集団。だからこそ、あんなことが起きたのだろうか。
弓を引き絞り、標的までの距離を測る。野兎が下草を齧り、気ぜわしげに首を回した。標的が大きく身を伸ばした瞬間を狙い、限界まで振り絞った弓を解放する。
「ニール!」
放たれた矢が標的を掠めると同時に、大鷹が野兎の群を浚った。
鋭い爪には血を流した獲物が捕まれている。じたばたともがく哀れな小動物をしっかりと爪で固定し、ニールは射手の元へ舞い戻ってきた。
「流石オルドリンだ、お見事」
額が出るくらいまで髪を短く切りそろえた青年が、三角の獣の耳を揺らして笑う。私は困ったような顔を作って感心しきったような彼に応えた。
「あの群は油断していたわ。私は運が良かったのよ」
「しかし、あの距離であんな小さいウサギに掠めるなんて。やっぱり逸材と呼ばれているだけあるな」
雨粒のように手を叩いて私を賞賛する彼に、とても居心地が悪い気分を感じた。私は何もしていない、ただいつものように狩りをしているだけだった。しかし彼が何故こんなにも私を持ち上げるのかわからない。もっと優秀な人はたくさん群にいると思っている。それこそ、彼が……イカルスのほうが、私よりずっと優秀だと感じていた。
「オルヤトは、今どこに? イカルスと一緒に狩りをしていたんじゃないの」
若い群の中では、しばしば他人同士で兄弟姉妹のような関係を構築する。技を教える大人が不在の分、狩りの知恵を引き継ぐ知恵のひとつだった。
オルヤトは、私の姉分であった。共に狩りに出ていたはずの姉の不在に幾ばくかの心配がよぎる。
「そろそろ来るはずだとおもうんだが……あ、いたいた。おーい、遅いぞ」
長い耳の少女の影が遠くに見えた。こちらの姿を見かけると、オルヤトは森の木立を揺らして駆け寄ってきた。ごめん、ちょっと手間取ったよ。そう言って頬を紅潮させ息を切らせて笑う姉は同性から見ても愛らしかった。癖っ毛の私と違い、うねり一つないさらさらとした杏色の短い髪も、小柄ではつらつとした明るい雰囲気も、何もかもが私の憧れだった。
「今日は不作だったよ。どうも風向きがあんまり良くないみたい。オルドリンは?」
何羽か野兎を仕留めた。そう伝えると、大きな目を見開いてオルヤトは飛び跳ねた。
「すごい!良かった、私たち今日の夕飯はまた干し肉かもって思っていたよ……。
今日はご馳走にしようね!」
日に焼けた腕に抱き寄せられ、私は慌ててもがく。暖かな太陽のような香り。
安らぎと心地よさに気が弛み、このまま抱き寄せたままでいてほしくなってしまう。
「おいおい、俺も小鳥を仕留めたんだけどなあ。まあいいや、そろそろ拠点に戻ろうか」
苦笑するイカルスが先を歩み、私たちは群の生活拠点へと足を向けた。姉のようなオルヤトと今日の狩りの話をしながら木々の間を抜けていく。私たちの日常は、互いに互いなくしては成立し得ないものだった。
オルヤトが、森を歩む私に耳打ちをしてくる。
「ねえねえ、さっきイカルスと二人で、何の話をしていたの?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、私の頬をつつくオルヤト。また私からの話をイカルスを冷やかす種にするのだろう。大した話はしていないよ、といつものように答えるも、今日に限ってはそれでは満足できない、というような素振りで食いついていた。
「イカルスが、私の狩りが上手だって話をしたの。でも、私はイカルスがなんでそんなことを言うのかわからないのよ。だって、イカルスのほうがずっと上手なのに
」
そう、と急に関心を失ったかのようにオルヤトは視線を落とす。一瞬何か考え込んでいる様子を見せたが、また直ぐに笑ってくるりと身を翻した。
「イカルスも生意気ね、そんなこと言ったってかわいい妹分が困るだけじゃない。いいわ、私からオルドリンを困らせないのって言ってあげる」
私とは違ってオルドリンは繊細なのよ、そう謡いながら跳ねるように駆けるオルヤトに、私はほっとしたような安心感を覚えていた。一瞬、オルヤトが気を悪くしたのだと思っていた。
オルヤトは群の人気者だ。明るく、体格も整い、面倒見がいい。しかし、一つだけ欠点があった。彼女は狩りが苦手だった。弓もなかなか当たらず、また使役する獣とも折り合いが悪くうまく懐いて貰えていないと聞いていた。だから、狩りの腕前の話題はあまり彼女とはしたくなかったのだ。
彼女の表情が曇ったのも、妹分が困らせられているから怒ったのだとわかり安堵のため息がこぼれる。心優しい彼女を妹分として誇りに思うと同時に、彼女なら狩りができなくてもきっと生きていける。そう思っていた。
しかしそれは、私の愚かな思い上がりだった。
その日は、雨が降っていた。
雨の中の狩りは危険が伴う。矢の飛距離は下がるし獣たちの能力も低下する。聴力にも頼れなくなる雨季は若い群に対する試練だった。
体が重い。窓の外を見ながら陰鬱な気持ちで滴を眺める。
気だるさの原因は天候だけではなかった。昨夜の夜更け、私はイカルスに呼び出されていた。
群を出よう。君と俺とならもう群にいなくても生きていける。そして、俺の子を産んでくれないか。
突然の求婚に頭が真っ白になった。オルドリンは次の秋で確か十六になる。イカルスとオルヤトは確か四つ上だと言っていた気がした。イカルス達はもうそろそろ群の中でも最年長になろうとしていた。いままでも多くの先輩たちが群を出て行った。その中には番を作っていたものもいたかもしれない。しかし、自分の身に降りかかるとは、そしてその相手としてイカルスから求められるとは夢にも思わなかった。
まだ考えられない、ごめんなさい。そう半ば泣き叫ぶように吐き捨てて私はイカルスを見捨ててしまった。その場では逃げて、以来自分の寝床から出れずにいる。
イカルスが嫌いなわけではない。群の男子たちのなかではもっとも親しかったし、好意的に思っている部分も多かった。しかし、それは兄弟分としての感情だった。
ここ最近の妙な態度はこういうことだったのか。そう気がつくほど怖さが増してくる。まだ自分には遠い出来事だと思っていた。番を作ることも、群から出ることもまだ考えたくないと思っていた。しかし、イカルスは私を女として見ていたのだった。
怖い、どうしよう。そればかりが頭の中をぐるぐると回る。
そのときだった。
「オルドリン」
とても親しんだ声。今一番求めている声が寝床のオルドリンに声をかけた。
喜びいさんで立ち上がり、戸を開けた。
「オルヤト! 良かった、わたし、貴方に会いたくて……」
「……狩りに出ましょう」
目を伏せたまま、オルヤトは強引に私の腕を引く。その力があまりにも強くて、得も知れない不安が過った。
「でも、こんな雨じゃ……」
「いいから」
なんとか弓を掴んで、私は押し切られるようにオルヤトと狩り場へ向かった。
オルヤトは一言も発しない。木々の隙間から雨の滴は容赦なく叩きつけ私たちの服を、髪を濡らす。獲物の音も雨音にかき消され、ただ雨の喧騒という静寂に放り込まれていた。
「こんな雨じゃ何も狩れないわ……オルヤト、戻ろう」
オルヤトも雨に濡れ蒼い顔をしている。もともと狩りの得意ではない人だ、こんな雨の中耐えるのも辛いはずだった。
「オルドリン、私がなんであなたを連れ出したかわからないの」
ずっと前を何かに牽かれるように進んでいたオルヤトが急に歩みを止めた。彼女の背中はとても小さく、そして震えていた。
「……イカルスから求婚されたんだってね。良かったね、もうあなたの顔を見なくて済む」
顔を見せぬまま吐かれた言葉は、どの雨より冷たく、そして鋭かった。
「本当は私がイカルスと群を出るはずだったんだよ。ずっと約束してたんだ、外の世界で一緒に暮らそうって。でも、あなたが来てから変わった。わたしは狩りが下手で、イカルスに見放されたんだ。わたしより、狩りの上手なあなたの子が欲しいんだよ」
静かにオルヤトが矢筒から矢を抜く。鋭い矢先が雨粒に光る。
「……あんたがイカルスを奪ったんだ」
引き絞った弓につがえた矢が、静かに私の喉に向かっていた。愛らしく、誰よりも愛されるオルヤトが今こうして私に弓を引いている。その事実に、指先から血が冷えていく。
「群を出て、オルドリン。今出るなら私も見逃してあげる」
唇が震えてうまく言葉が出ない。イカルスの求婚に対して否定をしたとも、群を出ることに対して肯定をしたいとも言いたいのにただ奥歯を鳴らすだけだ。
俯く顔を上げると、オルヤトは目から涙を流していた。
雨粒ではない。目を充血させて決断を迫るオルヤトの覚悟に心臓を貫かれたような気がした。
背を向け、群のキャンプとは別方向へ私は駆けだした。振り返ってはいけない。言葉一つ発せないまま私は必死に逃げ出していた。
どのくらい走っただろう。ぬかるんだ道で何度も転び、全身が泥まみれだ。それでも走らずにいられなかった。
私はオルヤトまでも傷つけていた。その事実が体中の擦り傷よりも鮮明な裂傷となって心を引き裂いていた。大切な姉に憎まれていた。そう考えるほど全身が締め付けられバラバラに千切れてしまえと願わずにいられなかった。
一心不乱に駆け出していた私は、この森の地形を忘れていた。私たちの受ける恩恵の源、森を貫く大河の支流がこの先にはあった。
雨に濡れた崖で足を踏み外し、体が宙を舞った。一瞬が永遠のようにゆっくりと過ぎていく。そうだ、私はここで終わるんだ。それが報いだと目を閉じたときだった。
「オルドリン!」
大型の鳥の羽音。そして体を抱き締める大きな腕。次いで、地面に叩きつけられる肉の鈍い音と衝撃。
一瞬止まった呼吸を取り戻し、薄く瞼を開けるとそこにはしっかりと私を抱き締めていた……イカルスの姿があった。
「イカルス、どうして、ここに来ちゃ……」
いけないのに、そう言おうとしてイカルスの負傷に目が止まった。目の焦点は合わず呆然と宙を彷徨う。全身を強く打ち付けたのか四肢は脱力しずるりとオルドリンのからだから落ちた。髪は新鮮な血に濡れ雨と混ざった滴を垂らす。
「オルヤトの様子がおかしかったから、後を追ってきたんだ。良かった、間に、合って……」
あとは言葉にならなかった。筋肉は弛緩し、大きな体躯は濡れた大地に放り出されていた。オルドリン自身も全身に痛みがあるが、大したものではない。間違いなく、イカルスがあのとき背の何倍も高い崖から落ちたオルドリンを庇ったのだった。
「イカルス、どうして、私は貴方を見捨てたのに、私は貴方に応えられないのに、どうして……」
どれだけ問うても、もう返事は無かった。
イカルスの身体を担いで群へと戻ったとき、私はもう何も感情を抱くことが出来なかった。仲間たちの嘆き悲しみ、私への他人事のようなの慰め。大地に埋められるイカルスの大きな体が、私にはもう遠い世界の出来事のようだった。
だから、オルヤトから受けた罰も、私にとっては当然の報いだとしか思えなかった。
「あんたをこのままにしていたら、きっと何度も繰り返す。だから、もう子供を産めなくなって、価値なんて無くなっちゃえばいいんだ」
アースランと交易する商品を保管する倉庫の中。私は両腕と両脚を金属の柱に縛られ痣が出来ていた。痣は両手両足だけではない。全身殴られていないところなどないかのように腫れや裂傷が出来ている。
衣服もずたずたに引き裂かれている。何度も鬱憤を晴らすために暴力を受けた身体は拍動の度に熱をもつ。
オルヤトが手に取ったものは、アースランとの交易品のガラス瓶か何かだったろうか。冷たく透き通るそれは強引に脚を開かされた私の中央へやはり強引に差し込まれた。
脳の血管が切れるかのような痛み。濡れていない隙間を処女膜を破壊しながら進む異物に、喉を挽き潰されるような悲鳴を上げた。
「そう、イカルスと何もなかったのは本当だったんだ。でも、もう壊れちゃったけどね。イカルスも、あんたも」
早鐘のような鼓動とともに、血が流出していくのを感じる。身体の内側からの激痛に眼球が乾き血の気が引いていく。それでも、まだオルヤトを信じたかった。もう戻れないのに、オルヤトは世界のどこかでイカルスと幸せになれると思いたかった。
「……そんな目をしないでよ。全部全部、あんたが悪いのよ。……見ないで、そんな目で、見ないでよ!」
異物が入ったままの腹部に当たる脚の衝撃。オルヤトの、泣き出しそうな憎しみの表情。
わたしの記憶に最後の表情を焼き付けたまま、私は意識を失った。