Ⅱ ハイネ・アルビレオ
乾いた砂が鎧の隙間という隙間に入り込みざりざりとした不快感を伴う。早く水で洗い流すか、せめてこの不快感を和らげるくらいはしておきたい気持ちで支配される。
「スプートニク、せめて鎧を脱いで入り込んだ砂を払い落としたい。ちょうど野営を始めたところだし、少しだけでもいいでしょう」
スプートニクに小声で相談を持ちかける。スプートニクに手伝ってもらえれば、見えないところの汚れも少しは落とせるはずだった。しかし、スプートニクは難しい顔をして首を振った。
「いけません、ハイネ。ボイセンやホーニヒはともかく、ここにはパトリックがいる。パトリックにはまだ貴方が女性だということを知られていません」
僕に耳打ちするスプートニクの嫌に深刻な口調に、釈然としない思いが胸を支配する。
「もういいんじゃないか。……パトリックも、信頼する仲間なんだから」
「駄目です」
スプートニクは断固として引かない。彼が一度決めたことは曲げないということは今までも嫌というほど知っていた。
「どうして」
「…男は、信用してはいけないんです」
なぜ、スプートニクがそんなことを言うのか、理由はちゃんとあった。
僕がハイネ・ノーシュとなった理由とともに。
ハイネ・アルビレオは双子の兄妹だった。
兄のヨハネと、僕らは狭い狭い楽園で暮らしていた。楽園に名前はない。分厚いカーテンと、数えきれない剥製と、柔らかな絨毯と、艶々とした家具たち。それが僕らの楽園を構成するものだ。
僕ら双子はいつも一緒だった。長い長い兎の耳を揺らして、僕らは日々互いだけが存在する世界で生きていた。……長いその耳が、使用人たちの噂の種になっているとも知らずに。
僕らには耳が二対造形されていた。一対は、父や母と同じ横向きの耳。そしてもう一対は、僕らにしか無い、長い上向きの耳。
僕はそれを双子だから、かみさまに選ばれたからだと信じて疑わなかった。使用人たちも、父や母にも無いことがその証明だと思っていた。
しかし、兄はそう思っていなかったのだと後に知った。
屋敷の地下はとても冷たくて暗かった。石造りの地下室は、わずかに灯された蝋燭の明かりが揺らめく度に歪んだ影を映す。
僕の耳には大きな氷がずっと当てられていた。何をされるかは理解していなかったが、見たこともない父の鉛のように重い表情に言葉を発することができなかった。ただ、とても寒くて寒くて、歯の根が合わずかちかちと鳴る音だけが頭蓋に響いていた。冷たい、凍えてしまう、父様はどうしてこんなことをしているの。そう傍らのヨハネに目で訴えた。ヨハネも同じく、耳に大きな氷を当てられ横たわっていた。ヨハネは長い睫毛を伏せ、何かを呟きながら剥き出しの地面を眺めるばかりだった。今考えると、ヨハネは自らに起こることを予感していたのだろう。僕より賢い兄は、ことの仔細をとても理解していた。
冷たさに視界が滲んで、ただただ場の雰囲気に怯えていた。視線を父に送り、解放してもらえないかと訴えた。父が僕の視線に気づいていたのかはわからない。ゆっくりと僕の耳を凍えさせていた氷が取り除かれ、僕は安堵のため息を吐いた。よくわからないけれど、許されたのだろうか。その考えはすぐに失われることになる。父が僕の長い耳を掴んだ。さっきまで氷が当てられていた耳の付け根に、傍らの手斧を振るったのだった。灼けるような熱さと、遅れて激痛が頭を襲う。どくどくと液体が噴き出し、視界が白い閃光と赤いもので染まる。
何が起きたのかわからない。悲鳴すら上げられずのたうち回ろうとする僕の頭をもう一度捕まれ、今度は反対側の耳を断ち切られた。
一度では理解できなかったことでも、繰り返されれば嫌でも理解できる。耳を切り離された僕は真っ赤な視界の中で地面に無造作に転がる自分の一部を見、獣のような悲鳴を上げた。父の、鮮血に染まるコートの背が、ゆっくりとヨハネにも近づいていった。手斧が振り上げられ、ヨハネが固く目を閉じるのが見えた。
しかし、ヨハネの悲鳴は聞こえなかった。代わりに、重たいなにかが詰まったものが倒れる音。そして、土に手斧が刺さる音がした。
僕らの母が、真っ赤な鮮血を噴き出しヨハネに覆いかぶさっていた。
少女のようなフリルのドレスも、真っ黒な美しい長い髪も、瀟洒なヘッドドレスも、すべて赤く染まっていた。ヨハネは目を見開き、自分を庇った母親を震える瞳で見つめていた。ヨハネの耳も端が切れていたが、僕のように完全に断ち切られていはいなかった。僕は一時自分の激痛をも忘れその光景に見入っていた。母は完全に事切れているのか、数度の痙攣の後に動かなくなっていた。
最も狼狽していたのは父だった。たった今妻を殺害した父は、まるでその寸前に娘の耳を断ち切ったことも忘れたかのように酷く動揺していた。やがて、数人の使用人が地下室に降りてきた。使用人たちは婦人の惨状に動揺しつつも恐らく打ち合わせてあった通りになのだろう、僕の耳の手当をしていた。使用人が母に手をかけようとするのを制止し、父は母の亡骸を抱きかかえた。絶ちそこねた耳の傷のせいか浅い呼吸をして、母の血に染まっているヨハネには目もくれず、父は母の身体を抱え地下室のさらに地下へ続く階段を降りていった。
傷が癒えるまで、暫くかかった。
その間、ヨハネは何も言葉を発しなかった。ただ、使用人たちの密やかな耳打ちで、僕にもことの次第が朧気に見えてきていた。
曰く、僕らの長い耳はアースランの父と母のあいだには通常持って生まれ出ることのない特徴であること。
曰く、母は特に兄の長い耳に固執していたこと。
曰く、父は母の妄執にも近いその姿に危機感を覚え、僕らの耳を絶ち落とすことを決行したこと。
そして、失敗し兄を庇った母を殺めた。
断たれた耳は壊死の危険があったため医師によって根元から綺麗に取り除かれた。ひと月ほど経った今でも、まだ頭の包帯は取れない。眠ろうと瞼を閉じるたびに頭の神経がささくれ立つようにずきずきと痛んだ。ヨハネは何も語ってくれない。二人だけだった僕らの世界は、断たれた耳とともに絶ち落とされてしまったかのようだ。
月のない夜だった。
夜中に目覚めた僕は、いつもは固く閉ざされていた屋敷の門が開いていることに気づいた。
背の何倍もある鉄格子の門。生まれてから十年、僕らはあの門から出たことがなかった。それは、いつもあの門が閉ざされていたからでもあったし、またその必要がなかったからともいえる。そして、父も母も僕らをこの庭から外に出そうとしなかったのは確かだった。
誰もが寝静まった冷たい空気の中、ゆっくりと門まで歩みを進めていた。頭に巻かれた包帯が流水の軌跡のように廊下に曲線を描いていく。布が緩やかに減っていく度に足取りは早まり、屋敷の扉を開けた頃には僕は駆け出していた。
繋いでいた糸が切れたかのように、無我夢中で走った。心臓が早鐘を打てば打つほど頭の傷は痛みだす。僕はあの屋敷にはいられない。その強い思いが外の世界へと身体を駆り立てていた。
月の無い暗い夜を、逃げ出すようにずっと走っていた。
僕はいつの間にか荒野に辿りついていた。
見渡す限り音もなく、寂しく枯れた木々と岩肌が闇の中にわずかに輪郭を残す。
風の鳴る音を聞きながら、突然空腹と寒さを思い出した。
胃がきりきりと捻じれ、肌は風が吹くたび金属にでもなったかのように体温を失う。月のない闇の中、僕は無鉄砲に駆け出してしまったことを強く後悔し始めていた。帰ろうにも、道らしき道はない。それどころか、夜の闇は自らが来た方角すら朧気に覆い隠していた。この震えは寒さだけではない。自分はどうなるのかという想像すらつかないまま、気がつくとへたり込んで嗚咽を漏らしていた。
どれだけそうしていただろうか。
ふと、肩に厚い布が被さる感触がした。
涙も拭わぬまま顔を上げると、兵士らしき男が笑いながら外套を掛けていた。
君はひとり?じゃあ俺と同じだね。
そう言って手を引く兵士は、反対側の手で小さな岩場のほうを指差しまた笑った。
あそこで野営をしていたんだ。風も凌げるし、温かい火にも当たれるよ。
答えも聞かぬまま腕を引く兵士に、僕はよろよろと覚束ない足取りで後を着いて行った。
洞窟では言葉通りに小さな固形燃料に火が灯され、橙色の光が揺れていた。兵士はバックパックに手を入れ暫くかき回した後、紙に包まれた不思議な棒状の菓子を渡してきた。
そんな寒そうな小さな女の子には親切にしなきゃね。
その言葉で初めて、僕は自分の服が薄いネグリジェ一枚だと気がついた。兵士はそのまま外套を被っていていいと言うと、自分も缶に入っていた何かの肉を齧っていた。
兵士の外套は暖かかった。黒い髪を真ん中でかき分けた男は、嬉しそうに夢中で菓子を齧る僕を見つめていた。
兵士が異国の歌を鼻歌で歌うのを聞きながらしばらく炎を見つめているうち、やがて固形燃料が燃え尽きた。機嫌の良い兵士は既に船を漕ぎ始めていた僕を腕に抱き寄せ、薄い布を被った。
闇の中だった。
荒い呼吸、そして肌に当たる熱い息に、僕は目を覚ました。
なにかに足首を掴まれ、乱暴に両足が開かれようとしていた。抵抗は一瞬のことで、すぐにその力は僕の身体を土の上に広げた。
暗闇に目が慣れると、状況が次第に見えてくる。そこには兵士が自分の体を抱きすくめ、ネグリジェをたくし上げ肌に顔を埋めようとしていた。
熱い生き物のような舌が薄い胸の浮き出た肋骨を舐め、節くれだった指が細いふくらはぎの形を確かめてくる。
ただただ、怖かった。
このまま殺されてしまうんだろうか、それとも食べられてしまうんだろうか。
あの、父に殺された母のように。
何もかもがわからなくて、無我夢中で腕を振り上げ身体の上の兵士を振り払おうとした。
……その手の中には、無心で掴んだ大ぶりの石があった。
兵士は動かなくなった。やがて日が昇ると僕は自分のしたことに気がついてしまった。
嗚咽をいくらあげようと、もう誰も聞くものはいない。今まで守り続けてくれた兄もいない。父も母もいない。
この洞窟を出ることすら怖かった。帰るところも無い、そして行くところも無い。どうすることもできずそのまま日暮れまで泣き続けていた。日が暮れ、冷たい風がまた流れ込む頃にようやく涙は涸れた。虚ろな心のまま、僕は兵士の荷物に気がついた。泥に塗れ破られたネグリジェの代わりに、彼の着替えを着、そして眠った。時折空腹に内臓が捻れれば、荷物の中の菓子や缶詰を貪った。
何度か日が登り暮れ、兵士の死体が形を失い始めた頃、一人のセリアンが洞窟を訪れた。
それが、スプートニクだった。
セリアンの少年は日没の陽光を浴びてこちらを見下ろしていた。紅梅色の髪が彩雲の赤みと一体化してまばゆく煌めく。少年は、真っ直ぐ僕を見、そして傍らの兵士の死体に視線を移した。
「貴方を救いに来ました。私はスプートニク、貴方の犬です」
迷いのない口調で、スプートニクは僕に手を差し伸べた。兄とも、兵士とも違う涸れた声は、後に声変わりをしたばかりだったのだと僕は知る。しかし、今の僕にはただ彼もまた大人であるという証明でしかなかった。つい先程殺めた、兵士と同じく。
「こ、来ないで! お前だってこの兵士みたいにぼくをころそうとするんだろう」
どうにか震える声を絞り出して、僕は叫んだ。何もかもが信頼できなかった。いや、信頼するという感情を忘れてしまっていたのかもしれない。今はただ、目の前の事実が折り重なりその重みで潰れる寸前だった。
「どうすれば一緒に来ていただけますか。私はこの兵士とは違います」
困ったような表情で眉を寄せスプートニクは一歩、一歩と洞窟に足を踏み入れる。肩に手を触れようとした瞬間、僕は何か叫びながら狙いも定まらないまま兵士の剣で斬りかかった。
スプートニクは、避けようとしなかった。
薄着の腕から、赤い血が滴る。水音がいやに大きく洞窟内に響き、僕は剣を取り落とし膝をついた。
「……私は死にません。貴方に殺される運命ではないからです」
その笑顔を僕は今まで何回も、何十回も見た気がして、視界が大きく滲む。熱い雫が頬を濡らし、血の滴るスプートニクの肩にしゃくり上げながらしがみついていた。
「……貴方の味方ですよ」
スプートニクは、脱ぎ捨てたままになっていたノーシュの鎧を僕に着せた。十の子供に成人男性の鎧が合うはずもないが、スプートニクは器用にベルトを一番狭いところまで締めどうにか脱げないよう整えた。
「大きさはじきに合います。あなたがどのように育つか私は知っています」
他にもバックパックを物色し、金属製のプレートや地図を探し出して懐に収めている。
「どこに行くかわかりますか。アイオリスです。あなたの故郷に……最も近い街へ」
あの兵士は傭兵として登録をしていたらしい。
スプートニクがプレートの番号をゆく先々の行政に告げると、すんなりと街への旅程が整った。個人照合はされなかった。
もとより、傭兵としてそこまで真面目にやっていなかったのか、あの兵士を知るものは誰もいなかった。そうして月日が流れ、僕の身体は鎧に合わせるかのように育ち誰も僕がノーシュであることに疑問を抱かなくなった。
こうして、僕はノーシュと成り代わった。スプートニクと二人で旅をする過程で、最も身分を隠して生きるのに相応しい、冒険者となることに緩やかに決定していった。
……生きるために、冒険者となった。
僕は女ではない。弱くて脆い、女にはならない。
僕はハイネノーシュ、なのだから。