Ⅲ ホーニヒ
ソロルとリリの話を聞いたのは、墓場のような暗い暗い迷宮でアースランの遺品を集め終えた頃でした。
アーティファクトを盗んだネクロマンサー
そして、自分の人生を生きられない、リリ。
彼女の話を聞きながら、僕もきっとそうなんでしょうねと静かな確信を胸の中に感じていました。
だって僕の人生なんて、なにもないのですから。
僕は母と二人で暮らしていました。
母はとても僕を愛してくれました。僕もまた、深い愛情を母に返していました。
僕にはもう他に何も要らなかったのです。僕と母の二人がいて、それでささやかな幸せだったのです。
母の死後現れた僕の父を名乗る男の人たちは、皆僕を通して母を見ていました。
母と二人の貧しい暮らしも、母の流行り病にも、何もしてくれなかった父親たちは、揃って僕というトロフィーを求めてきました。
何もかもが嫌になりました。母のいない世界も、父のいる世界も、すべてが酸素が薄くなったかのように苦しくて、僕は鉢の中の魚のように喘いでいました。
そんな僕を開放してくれたのは、母を連れて行ったものと同じ、死でした。
大好きな人ができました。
大好きな人は、猛毒のひとでした。
ボイセンという名前の彼の歌声は、数えきれない人を魅了して、数え切れないほど殺してきました。呪術師だ、と誰かが言っていました。彼の歌声とともに鳴る鈴の音を人々は畏れ忌み嫌っていました。しかし、僕にはまるで教会の祈りの鐘のように美しく、そして荘厳に彼の歌声を引き立てていると思えました。
僕もまた、彼の歌声に恋をしました。
信じられないことに、ボイセンさんも僕のことを愛してくれました。
最愛の兄を喪ったばかりだという彼は、母を喪った僕に寄り添い、また僕は彼の心を抱き寄せました。彼のハミングに合わせてリュートを爪弾けば、僕らの世界にはもう他の何も要りませんでした。
彼の歌を沢山浴びました。彼の痣の肌を撫でるたび、彼は申し訳なさそうに自らが呪われているのだと呟きました。そんなことは要らない、だって僕はあなたを愛しているし、この痣を与えたあなたの母もきっとあなたを愛していたのでしょう。そう言って、僕は彼の肌にキスをしました。
愛し合えば合うほど、僕の身体は蝕まれていきました。
もとより、彼の身体は人を殺めるために作られていました。幾人にも抱かれ、幾人も抱いた彼の身体は、交わったものを殺める他にすべを知らなかったのです。
そして、僕の命の灯火は静かにその光を失いました。
僕の人生はからっぽです。
生きているとき、僕の心を埋めるものは母と、ボイセンさんだけでした。今、僕の体には死霊しか詰まっていません。
宿の一室、僕らの部屋は薄闇に包まれています。もうすぐ日が暮れるのでしょう、窓の外のアイオリスの町並みには夕餉の香りと帰路につく人々の雑踏で柔らかな喧噪が満ち溢れていました。
でも、僕らにはそんなものは無縁のことです。窓に背を向け、柔らかな笑みを浮かべて誘うようにボイセンさんを腕に招き入れました。朝靄のような美しい白い髪に手櫛を通せば、僕の蜂蜜色の髪にも彼の細く長い指先が差し込まれました。頭蓋の形を確かめるように互いの肌を慈しみ、僕らはどちらともなく唇を合わせました。
雛鳥のように歯列を開き、注ぎ込まれる冷たく質量のある流動体を嚥下しました。死霊と言われているそれを、僕は乳飲み子のようにただひたすら飲み込み、身体の中の物理的な空洞を埋めるように満たしていきました。流水のように冷えていて、それでいて薬草酒のように活力に溢れる死霊を飲み込んでもいつも味覚には何も感じません。死霊に味がないのか、僕のような死体はとうに味蕾が機能しなくなっているのか、僅かな疑問はありますが答えはありません。
次第に指先や、足の遠い組織から順に死霊の活量が満ちて来るのを感じ、飲み込む速度を緩めます。喉の手前まで満ちてくるのがわかると、名残惜しく舌を絡めボイセンさんから唇を離しました。
僕の身体に死霊の活力が満ち、腐敗を始めていた細胞が緩やかに分裂を始め生命力を取り戻していきます。僕に触れるボイセンさんはわき腹の空洞に巣食い始めていた蛆虫を見つけ、その長い指で一本一本潰していきました。活力が細胞に行き渡れば、直ぐに蛆虫も僕の身体から去るでしょう。でも、僕が死体である証明の蛆虫をボイセンさんは黙々とこの世から追いやっていきます。
ボイセンさんは一言も話しません。話せません、と言うほうが正しいのです。
ボイセンさんの歌声は無くなりました。僕をこの世に繋ぎ止めた代償に、喉を捧げたのです。
僕が奪ったのです。僕は、世界で最も愛するものの存在しない世界に死後の生を与えられたのでした。
僕らはこのかつての戦争の爪痕で魂を燃やしています。この墓所で、死体のような魔物たちと命のやり取りをしています。あの魔物たちと僕になんの違いがあるのでしょうか。リリとソロルを襲撃したあの棺桶の魔物は、僕のあるべき姿ではありませんか。
「お父さん、よろしくお願いします」
体に巡る死霊を掌に集め、圧縮して熱を持たせます。魔術師のための装束に巡るチューブの中を循環させ、熱は火花を発し指先で紅蓮となって棺桶の魔物を襲いました。
僕の身体を巡る死霊は、僕の父親たちでした。死してなお、僕は母の恋人を名乗る彼らを許せませんでした。僕の父たちは、雷となり、氷牙となり、焔となり文字通り身を粉にして僕の為に働いています。彼らに意識があるのかはわかりません。そんなもの、気に留めても無駄なことですから。
僕の人生はもうありません。
僕がボイセンさんの毒に倒れたあの日、僕が異形の魔物となってこの地上に降り立ったあの日、今の僕の人生は最終頁を超えてしまったのです。
僕の人生はもう要りません。ボイセンさんも、僕も、もうどこにもいけないまま死体として彷徨い続けるのみなのです。だから、僕を拾ったあの人の……ハイネの思いを遂げさせたいのです。
ハイネの見たいものを見せてあげたいのです。彼女の魂は、月面を故郷に育ちました。天上に輝く白い月。僕らがハイラガードの天の城へと登り詰めても届かなかった美しい死の国。彼女の魂を、あるべきところへ届けてあげたいのです。母の眠る、魂のあるべき天の国へ行けなかった、僕だからこそ。
だから。
かつてのルナリアの男は、今や悪趣味な化け物と化していました。蛆虫まみれの死体の僕が言うのも可笑しい話ですが、肌は変色し痩せ衰え、骸骨のような輪郭に奇妙な異国の装飾を身に纏った男は、道化の仮面のようでした。死体の王、アンデッドキングを名乗り僕らに語り掛ける彼は、とても滑稽でした。
ハイネの剣や、スプートニクの刃が幾度も切りかかりました。彼らはとても綺麗でした。まっすぐに、生を見て生き残ろうと必死に命を輝かせていました。アンデッドキングが枯れ木のような腕を振るう度、僕の愛しい仲間たちは木の葉のように吹き飛ばされ、真っ赤な生きている証の飛沫を大地に浴びせていました。
僕はまっすぐ彼を見ました。蹲って呻き声をあげながら尚立ち上がろうとするハイネ達は、とても気高いと感じました。だから、今立っているのが僕一人でも何も怖くはありませんでした。だって、僕の身体は噴き出す血潮なんてとうの昔に涸れ果てているのですから。
アンデッドキングの死杭のような手が僕の胴を真っすぐに貫き、僕の幾億の細胞が音のない悲鳴をあげて引き裂かれました。神経が反射で全身の筋肉を硬直させ、頭の先から足先まで仰け反りがくがくと痙攣を起こしました。異物の侵入にまだ人らしい機能を残した身体が拒否反応を示し脳の細胞が痺れて目の前が白い光で眩しく瞬きました。
アンデッドキングは、笑ったのでしょうか。僕の身体を貫いたまま引き寄せ、獲物を捕らえた獣のように他の仲間たちへ見せつけるように高く掲げました。百舌鳥に捕らわれた蛙のように、僕は力なく仲間たちへその無残な姿を晒したままになっていました。
負傷で這いつくばるボイセンさんの目が見開かれるのがよく見えました。何かを言おうと叫ぶその唇からは、しかし何も意味は発せられませんでした。
「……ごめんなさい、でも、大丈夫ですから」
僕はまだ動く顔の筋肉を使って、笑顔のようなものを作って仲間たちに微笑みました。上手く動いていなかったかもしれないので、もしかしたら歪んでしまったかな、なんて考えながら僕は身体の風穴の断面に意識を集中しました。
その瞬間でした。僕の身体が一瞬にして燃え上がり、青白い死霊の焔が僕と繋がっているアンデッドキングごと瞬く間に包み込みました。
最初から、こうすべきだと分かっていました。だからこそ、最高のタイミングを僕はずっと待ち続けていました。僕の身体を巡る死霊が循環を断たれ、エネルギーに不均衡が生じ爆発的な力を得るこの瞬間まで。
火を消そうともがく化物の王はもう全身に青い火の舌に飲み込まれていました。篝火の中の主役は、踊り狂いながら次第に体を灰に変えていきました。
燃え盛る火の中で共に灰となりゆく僕は、もう何も見えていませんでした。
今度こそ、僕は天上に上れるのだろうか。
最期にボイセンさんの歌の旋律を思い出そうとしたところで、僕の存在は途切れました。