「プロセラルム可能態」6 R18

Ⅵ スプートニク・ユーリィ

ハイネの姿が消えたことに気づいたのは今朝のことだった。
まず頭をよぎったのは、昨夜ハイネと口論になったことだった。
「僕はスプートニクのものじゃない」
「すべてを拘束されているみたいだ」
そんな話をした気がする。私が何を言ったのか、それとも何も言わなかったのか。ハイネは私達の二人の部屋ではないところで寝ると言い残し部屋を後にした。
ホーニヒが焼失してから、ハイネは情緒が安定しなかった。
アンデッドキングを倒した私達は、ソロルとリリからとても感謝された。街の人からは勇敢さを称賛され、もう駆け出しの寄せ集めギルドという評価は似つかわしくない。他のギルドの者から声を掛けられることも増えていた。お零れに与ろうとする者。憧憬の目を向けるもの。そして、嫉妬を秘めすれ違う者。
ハイネはホーニヒの選択に対し深い責任を感じていた。二人が強く心を通わせていたことは知っている。精神の年齢が近い少年少女たちは、女学生の約束のように同じ夢を見ていたのだろう。
「月に行こうなんて僕が言ったから」そう枕を濡らしながら悔やむハイネを度々見ていた。月は私達の目標だった。ハイネの魂の故郷。ハイネは私に言われるがまま意味もわからずこの旅の目的地として定めていた。彼女はその重さが理解できていなかったのだろう。冒険者が樹海の果てを目指すということは即ち、どんな犠牲も払い歩み続けるのだということを。
水晶の樹海に足を踏み入れた私達は、一人欠けた重みを噛み締めていた。そこにいる筈だと振り返った先の空白は、私達の心の傷を膿ませていった。
戦力的な問題として、という言い訳に欠員を補充することになった。本音は、この膠着した空気の気まずさを打開したいという思いがあった。ボイセンは何も語らなくなった。元よりホーニヒの死霊を通しての代弁あって初めて会話が成立していたのだ。意思疎通が不可能になった彼は、益々自分の殻に閉じこもっていった。パトリックは何も変わらぬまま、ギルドリーダーの判断を待っていた。仲間の死に慣れているのか、男はあくまで合理的に処理しようと踏んでいるのだろう。
欠員には、フリーランスとして登録のあった薬草士に依頼した。アポロという背の高いブラニーは、ハイネを見てその水晶のような目を丸くした。
「君の顔はとても見覚えがある。……僕の所属するギルドのリーダーとまったく同じ顔だ」
アポロはこんな偶然もあるのかと呟きながら並ぶ二人を見つめていた。金の長い髪を左右に結い、華美なドレスに身を包む少年。そして白銀の鎧を纏い灰色の髪を短く切り揃えた私のよく知るハイネ。様相は違えど、二人共鏡写しのように正対の造形をした顔立ちをしていた。二対の紅の瞳に圧倒されて、アポロが小さく息を呑むのが聞こえた。
少年……ヨハネ・アルビレオはハイネの兄だった。そう、私はすべて知っていた。ハイネとヨハネ、そして私は、何百回と生を繰り返してきたのだから。ハイネがこの世界に生まれてきた以上、ヨハネも必ずこの地上に生を受けている確信があった。このような形で出会うことになるとは思っていなかったが。
「ヨハネ、あなたもまたこの世界に来ていたのですか」
「そうだ。…スプートニク、君がハイネのそばにいるなんて。……君は今まで何度ハイネを殺した?何度僕を殺した?よくも、顔を見せられるものだ」
ヨハネの長い耳が揺れる。頭上の耳はセリアンの特徴であるはずだ。顔の横にもある丸い耳と見比べ、今生での彼の複雑な出生を朧気に感じた。
「……殺めてしまったから、今度こそ守るのです」
「嘘つき」
ヨハネが首のチョーカーを緩め、白い喉仏が顕になる。少年の証の喉に横切る古傷を見た瞬間息が詰まった。
「それで守れたことはないだろう。……君の罪は、確かに僕にも刻まれているんだ」
ヨハネの白磁の肌に似つかわしくない斬首の痕は、私の記憶を強く揺さぶる。そうだ、この傷は私がつけたのだ。私が、かつて……この世ではない世界で、彼を処刑したのだから。
「私は、今度こそハイネを守ります」
声が揺らがないよう細心の注意を払って絞り出す。横にはハイネがいる。ハイネは前世以前の記憶がない。私達が繰り返していることは何度も説明を重ねてきた。そして私が言葉を重ねるごとに、それを真実だと信じ切って鵜呑みにして信頼していた。……私に、都合の良い真実のみを。
「本能では、僕らうさぎを喰らいたくて仕方ないくせに」
喰らう、という表現に口の中が湿っていく。生唾を飲むこむ音は聞こえやしないだろうか。そんなことは、と紡ごうとした喉が締め付け脳裏に本能が囁いた。
「そうよ」
目前に現れる本能は、黒い髪の女の姿でその端正な顔を醜く歪めて笑った。纏った女学生の服は、喪に服するように隅から隅まで黒檀に染まっている。クドリャフカ、と声を荒げようとして思いとどまった。ヨハネにもハイネにも彼女は見えていないんだ。私の脳に住まう悪魔を何も晒すことはない。そう、このまま平静を保つべきなのだ。
ころころと鈴のように笑いながら彼女は私の周りを巡った。重力を無視して跳ね、煽るようにヨハネの首筋を指さした。
「彼を処刑したとき、あなたはハイネを救おうとしたのよね。真っ赤な血はとても綺麗でとっても美味しそうだった」
やめろ、黙れ、そう声に出さずに強く語りかけるもクドリャフカはまるで無視してけらけらと笑う。長い黒髪を宙に舞わせて黒犬の本能は舌なめずりをした。
「ヨハネは忘れていないわ。何度もあなたに殺されたことも、ハイネも殺されたことも」
「罪を受け入れろ、スプートニク。きみは必ず失敗する。これはクドリャフカの呪いだ。お前が黒犬である限り僕らは救えない」
ヨハネの言葉を待っていたかのように、クドリャフカは一際大きく笑って霧散した。兄と保護者の険悪な雰囲気を感じて固まっているハイネが一層哀れだった。埒が明かないと感じたのか、ヨハネは踵を返しスプートニクを置いて去っていったのだった。

あのときの言葉が頭の中で反芻されていた。
宿の部屋を探し、そして街のめぼしい店舗を探しても、ハイネの姿は無かった。
姿がないのはハイネだけではない。パトリックの影もなかった。ボイセンに行き先を知らないか問いただすも、目を逸らし声の出ない喉で何かを呟くのみだった。ボイセンは何かを知っている。そして、それは後ろ暗いことで間違いはない。パトリックがボイセンに近づいているのは知っていた。幾つかのピースが合わさるにつれ、嫌な予感が首筋を悪寒となって伝っていった。
探していないのは、世界樹の迷宮の中だけだった。
景色に馴染まぬ砕かれた水晶を道標に、私はそこにたどり着いた。
隙間から身体を小部屋へ滑り込ませた瞬間、私の獣の嗅覚は最悪の想像を現実の嗅覚となって捉えてしまった。
酸化した血の香り。汗と吐瀉物と……情事の香り。
部屋の隅に探し求めていた彼女はいた。愛しいその顔は痣で濁り、着衣は乱れて髪はぐしゃぐしゃだ。鼻や唇の端からは血も流れ、そしてその瞳は、かつてのあの兵士を殺めたときのように虚ろなガラス玉と化していた。
抱き締めたかった。しかし、その資格がないことを強く感じ取ってしまっていた。一瞬の逡巡のうち差し伸べた手が払いのけられ、その力は悲しいほどに弱かった。
「……守ってくれなかった。間に合わなかった。僕は、もう月には帰れないんだ……」
肩を震わせ俯くハイネに、言葉が出なかった。否定をすることも肯定をすることも出来ず、宙に差し出した手だけが虚しく無限にも等しい距離を感じていた。
「だからヨハネは言ったでしょう。あなたには救えないって」
脳裏に反響する声が網膜を赤い鼓動で埋める。クドリャフカ。こんな、最悪のタイミングでお前の声は聞きたくない。振り払おうとする努力も虚しく黒い女学生はハイネに纏わり付きその肌を撫でる。
「諦めなさいな。だって私達には次がある」
次なんて、無い。次があると思ってしまってはいけないんだ。今生で、必ずハイネを救うと決めたのだから……だから、次なんて。
「そうやって、いつも駄目だったじゃあないの。大丈夫、次こそは、うまくやれるわ」
甘い誘惑は網膜を閃光に染めていく。目の前のハイネに、今までの……何度も失敗、したときの姿がオーバーラップする。柔らかなハイネの肉。紅い瞳と同じ色の血がこの薄い皮膚の下に詰まっている。内臓までも暖かで綺麗な、ハイネ。
「スプートニク、僕を殺して」
呟きは懇願となって私の脳を支配する。何度も私達はやり直してきたのです。そして、何度も巡り合ってきたんだと私はハイネに寝物語をしていた。その言葉の下敷きになった臓物と、血と、肉の味の欲望に塗れた事実をひた隠しにして。
「……私はまた失敗してしまうのですね」
その呟きはハイネに聞こえていたのだろうか。腰の刀を抜くと、安堵したようにハイネは目を閉じた。幾多の血潮を浴びた鋼は、その冷たい輝きを水晶の部屋に乱反射させる。
静寂が支配していた。彼女の両足の間から伝っていた白濁が彼女自身の血液で赤く上塗りされていき、床を鉄錆の紅で染めていく。
くすくすと笑う黒犬の声だけが、私の思考を埋め尽くしていた。

あるところに一羽のウサギと一匹の犬と一人の男がいました。
男と犬は青い星から箱舟に乗って落ちてきました。
ひとりと一匹はとてもおなかがすいていました。
うさぎは懸命に月の食べ物をもってきましたが、男はどんどん痩せていきます。
ある日、男が食べ物を探しに行った隙に犬はうさぎを二つに裂いて火に投げ込みました。
戻ってきた男に、犬は新鮮な肉を食べるように促しました。
しかし、男はその肉がうさぎだと気づきました。
なぜなら、うさぎは死ぬ前に男に自分を食べて欲しいと話していたからです。
男は嘆き悲しみ、二度と犬に会いたくないと告げどこかへと去っていきました。
犬はうさぎによって男の愛が失われたことに酷く怒り、うさぎの肉を喰らい、そして男の魂を囚えました。
男は犬とともに、そしてうさぎは二つに裂かれたまま永遠に長い時を生まれ続けることになったのです。

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