蒸気と、柔らかな澱粉の香り。それで目が覚めた。
軽やかな電子音を立てて炊飯器が呼ぶ。のそりと起き上がると、隣の布団はもう空だった。軽く上掛けを折ってキッチンの様子を見に行く。
まだパジャマを着たまま、眠たげに藍城は鍋をかき混ぜている。髪の毛が跳ねている。後ろからその毛先を摘むとあれ、と振り向いた。
「おはよう。早起きやね」
「おはようございます、月森さん」
跳ねた毛先をくしくしと撫で付けながら、柔らかく藍城は笑った。鍋から湯気が上がる。今日はどうやらなめこらしい。
「いただきます」
と、手を合わせる。
小さなダイニングテーブルは、リサイクルショップで買ってきた。愛車は、もうしばらくそういった買い物にばっかり使っている。
「そういえば、あそこ……なんやっけ、揚げもん屋の角、新しい店出来とったで」
「張り紙してあったかもしれませんね。前は駐輪場でしたから、何が出来るかあんまり想像つきませんけど……」
思い浮かべたアーケードの街並みは、少しずつ華やかになっていく。足元のレンガは小さい苔が生え、シャッターには絵が描かれるようになった。
「行ってみるか?」
丁度、家のまな板が傷んできたところだった。木が柔らかくなってしまったので、これは店に切ってもらって鍋敷きにしよう。
そうですね、と嬉しそうな返事があり、空いた器と箸を二人分洗う。休日の柔らかいフランネルに腕を通し、手近な袋にまな板を放り込んだ。
「それだけ持っていると、何をしている人かよくわからないですね」
四角くなった袋を指し、藍城は笑った。
歩いていくと、街並みの描線が鮮明になる。ラフスケッチのようだった世界は、日々を重ねるごとに輪郭を整え色を選ぶ。
アーケードが大分出来上がったら、次はどこを作ろうか。
隣をちら、と見て次に足を運ぶところを考える。
ふたりで歩けば、そこに世界が作られる。
どう辿り着いたかはわからない。あのランドクルーザーの旅の終わりは、そこだけフィルムを切り取ったように抜け落ちている。
どこで止まったのか。どこにここはあるのか。
俺は何も知らない。きっと、藍城も。
街はひどく優しく、すべてが都合よい。誰も追う者はいない。オーヴァードという人種はない。
もしかしたら、自分たちの不死性や異能もなくなっているかもしれない。けれど、試す気はない。必要がないからだ。
グラデーションのように、気が付いたらここで生きていて、世界があって、ふたりがあった。
恋人や、結婚のような名前の有る関係である必要は無かった。命あるものは自分たちしかないのだから、他と区別する必要などないのだ。
新しいまな板はつるりと滑らかな形をしている。端に吊るすための穴が開いていて、小さく花の絵が描いてある。少し造形が細かくなったな。そう思った。
風呂を沸かし、夕食を食べ、時折テレビなどを見て。
毎日同じ番組を流すテレビは、最近少しだけ出演者が変わってきた。
またひとつ、世界のドットが細かくなる。
二つ並べた布団に入り、明かりを小さくする。その時だけ、藍城は世界の端に触れる。
「月森さん」
「なに、藍城」
「……帰ってきて、くださいね」
暗がりの中、手を握る。藍城は、手を握らないと眠らない。
「ここに居るやろ。居るんやから、かえらんことはない」
「……そうですね」
安心したように、目を閉じる。そっと頭に手を添え、優しく抱きかかえた。
何も見なくていい。そう言った。そして、ここができた。
ここの中は、藍城が欲しいと思ったものだけが見える。自分に出来ることは、それが色とりどりで、優しいものであるようにと隣を歩くことだけだ。
老いることはあるのだろうか。死はあるのだろうか。
薄膜のように被さる疑問は、いつも同じところへ帰る。
望めば、終わる。望まざれば、終わらない。
抱き締めた腕の中には、寝息を立てる小さな体温があった。そこに藍城がいて、ここに自分がいる。それに、どんな嘘があるだろうか。
「おやすみ」
起こさないように小さく髪にキスをして、ゆっくりと眠りに身を委ねた。