Ⅰ ハイネ・ノーシュ
僕は天を見上げ息を吐いた。
馬車による長旅からアイオリスに降りたったばかりだという胸の中には高揚と、少しの不安。
傍らの男が心配そうにこちらを見つめて手を差し出す。
どこかお具合でも悪いのですか、そう言いながら愚直に丁寧な男はこちらの顔色をうかがっていた。
「大丈夫、ちょっと馬車に揺られすぎただけ」
目の前にそびえる大樹……世界樹をこれから目指す。その事実を受け入れれば受け入れるほど、眩暈がしてくる。長旅で浮いた首筋の汗は冷え、淡泊な現実感として僕の神経を煽る。ふと生ぬるい風が背を撫で、思わず霧のような不安が胸を包んだ。
「……何があっても、僕を護ってね」
「私はスプートニク、貴方の犬です。貴方の刀となり、盾となり、毛皮となりましょう」
スプートニクはまるで罪人のように頭を垂れ、ハイネの足下に跪いた。三角のセリアン特有の耳が黒い毛並みをもってよく見える。黒毛の耳とは裏腹に紅梅のような色の髪を一つに結い上げた姿はまるで東方の劇役者のようだと僕は密かに思っている。
「僕はずっと清らかでいたい。あの空に浮かぶ月のように」
馬車の中からもずっと見上げていた、あの白い月。白金のような冷たいテクスチャはいつも揺らぐことなく天に佇んでいる。
清らかな存在でいたい。男にも女にもならず、大人にもならない汚れなき存在に。
それは幼少から胸にずっと抱いていた思いだった。それは人生を経るごとに石膏を塗り重ねていくかのように厚く、固く確かな思いとして心の形を成していく。スプートニクはそれを叶える忠犬だった。何年も前に疎遠になった家族よりずっと強固な信頼で結ばれた彼は、僕の半身も同然だった。
「僕は月を目指す。……そのためには、世界樹の頂へと」
腰に差した突剣の鞘にそっと指を這わせる。手にしたときから、僕は真新しい華奢な剣に自分を重ねていた。寸法がやや合わないぼろぼろの鎧や手甲と違い、この剣は正真正銘自分のためにと用意したものだった。この剣が美しく輝く限り、自分も誇りを持って強く生きていけている。そんなささやかな願掛けも込めて。
「空を、目指しましょう」
傍らのスプートニクの青い瞳もまた、同じものが映っている気がした。
宿屋の娘、ジェネッタとの手続きは思ったより円滑に終わった。
というより、手続きらしい手続きは無かったと言ってよかったというのが正解だった。
スプートニクの事前の根回しの甲斐あってか、部屋は予定していたメンバーの申し出分用意されていた。宿泊者の身元についても既に登録済みで、自分がしたことといえばサインをしたことと資金を支払ったことくらいだった。
「僕、スプートニク、ホーニヒ、ボイセン……パトリック?」
聞き慣れない名前を見つけ首を傾げた。ホーニヒとボイセンは自分が見つけてきた人材だ。しかしパトリックという名は聞き覚えがない。自分の予定では残った枠はフリーランスで埋める予定だった。できれば、ハーバリストやシャーマンのような補助ができる者だとなお良い。しかし、宿泊者名簿のパトリックの欄には竜騎士という注釈があった。
「そのひとですかぁ?スプートニクさんのご紹介ですよ~。今までギルドがなかったんですが、もしかしてハイネさんのギルドに入るんですかぁ?」
まあそんなところだよ、と興味津々なジェネッタをいなしたところで、ロビーの扉が音を立てて開いた。
「ハイネさん!お待たせいたしました」
外から滑り込んで来たのは長い金髪を揺らしたルナリア。あどけない笑顔をこちらに向け、僕の元へ駆け寄る。
「ホーニヒ、支度はもういいの?」
「はい、元々僕らは荷物もそう多くないですし。僕らはその身さえあれば、というところはありますから。そうでしょう、ボイセンさん」
上機嫌に話すホーニヒの横に佇んでいた長身のルナリアは問いかけに頷く。死蝋のような肌に浮かぶ痣、長い偏光の白髪が青に桃色にきらきらと照明で光る姿がミスマッチだといつも思う。そしてボイセン、ホーニヒのこの奇妙な二人組は、ハイネが助けそして同じ道を共にする約束をした者だった。
「僕らをギルドに誘ってくださって助かります。僕らには行くところがありませんでしたから」
そう言ってホーニヒはくるりとその場で回りボイセンの肩に身を寄せる。
「ボイセンさんも、こうして人に紛れられるアイオリスに来れて助かった、って言ってますよ」
人形のように押し黙ったままのボイセンを気にせず、彼の無言の言葉を通訳してホーニヒは笑う。
「アイオリスには本当に色々な種族が集まっていますね。僕とスプートニクのような組み合わせも、ボイセンとホーニヒのようなルナリアもいっぱい見ました」
辺りを見回せば、宿の前の路地を行き交う人々は様々な姿をしていた。ハイネには馴染みのないひどく小柄な種族や、スプートニクのような武人の者達。狼や鷹を連れている少年もいれば、難しそうな魔術の機械を操作する女性もいた。
「……僕らのような漂流者でも、この街なら上手く過ごしていけそうでほっとしています。ありがとう、ハイネ。僕らを見つけてくれて」
ホーニヒは深々と頭を下げる。その感謝の気持ちは頭こそ下げないものの、目を伏せ小さく頷いたボイセンも同様だった。
「そんな畏まらないでいいよ。僕はたまたま通りかかっただけなのだから。それに、ギルドメンバーを捜していた僕には渡りに船だったし」
「僕らはハイネの夢を応援します。この世界の命を尽くしますよ」
ホーニヒとボイセン、彼らと僕が出会ったのはアルカディアの一地方、とある浜辺だった。
浜辺を歩いていた僕はボイセンの歌声に惹かれ、打ち上げられていた二人を発見した。
僕にしか聞こえない美しく奇妙な歌声以外、何も言葉の発せないボイセン。死霊の香りを漂わせ生死の狭間で揺れるホーニヒ。
この世ではないどこかから来た二人を見かね、僕はギルドへと入るよう勧めた。
それは、ホーニヒには術師の才が、ボイセンには死霊師の技術があると感じたからだった。
行く宛のない二人は快く了承し、そしてアイオリスへ同行し今へ至る。
「ところで、あと一人……パトリックは?」
ハイネが首を傾げる。確か、最後の一人は竜騎士だったはずだ。
「あと一人はそろそろ来る予定ですが……」
どんな人なのか、と腕を組む。剣士、武人、術師、死霊師と来て最後の一人、竜騎士。熟練の冒険者だろうか。それとも、僕らのように初心者仲間が来るだろうか。
そのときだった。帽子を被った童女がスプートニクの元へ真っ直ぐに駆けてきた。そして、 童女は派手にスプートニクの脚に衝突して止まった。怪我はないようで、にこにこと笑いながらスプートニクによじ登ろうとしている。三角の耳からしてブラニーではあるようだが、それにしても幼い。あどけない表情は恐らくまだ学童期にも満たないように見える。
「ツメクサ。その人はこれからパパがお世話になる人で、木でも遊具でもないぞ」
「ぱぱ!ツメクサおみみさわりたい!わんわんさんのおみみ!」
童女のブラニーの後から、赤毛の男性がゆっくり後を追ってやって来た。赤毛を後ろの方へ撫でつけ、重厚なコートと鎧に身を包む男はそっと童女を抱き抱えた。
「どうも、スプートニク。ここにいるのがお前のギルドか」
男はスプートニク達をぐるりと一瞥し、またスプートニクに視線を戻した。視線が合った瞬間、垂れた眠たげな目の目尻に片方だけ泣き黒子があるのを見つけ、何故か背筋に生ぬるい風が吹いたような気がした。
「やあ、パトリック。彼が私たちのギルドのリーダーとなるハイネです。来てくれたということは、彼の目的……月を目指すことに賛同してくれますね?」
スプートニクが順に集まった者達を紹介していく。各々に自己紹介し、そしてハイネの番になった。
「僕はハイネ。ここにいる者達は僕の願いで集められた。よろしく、パトリック」
「パトリック・リード。竜騎士としてこの街にいる。ちょっとこの子が出かけにぐずったもので、遅れて悪かったな。この子は俺の娘のツメクサだ」
パトリックの腕の中でツメクサがぱたぱたと手を振る。注目を浴びて嬉しいのか、今は機嫌良さそうに腕に抱かれている。
「これから皆準備もあるだろうから、今日は自由行動になります。明日からは、この宿で生活することになるからね」
ハイネから一通り説明を受けた後、皆思い思いに散開していく。ハイネも宿へ戻ろうとしたときパトリックが近寄ってきた。
「スプートニクに紹介されるまではフリーランスをしていた。樹海に足を踏み入れた経験も無いわけじゃない。これから世界樹に挑むうえでわからないことがあったら聞いてくれ」
パトリックは眉根を下げこちらに向かって手を広げた。人好きする笑顔の口元の歯が欠けているのを見つけ、何故か見てはいけないものを見てしまったような気分になる。
「どうして、フリーランスから僕らのような新造ギルドに入る気になったの?装備を見る限り、もっといいギルドはいっぱいあると思うけど」
ふと、胸に抱いていた疑問を呟く。頼りがいのありそうなパトリックに対し、自分があまりにも何も準備ができてないような気がした。これから天を目指すというのに、僕はあまりにもスプートニクに任せきりだったような気がする。
「そうだな。……この子の、為でもあるかな」
パトリックは視線を落とし、ツメクサをそっと抱き直す。いつの間にか眠ってしまったツメクサは溶けた液体のように力なくその身をパトリックに預けきっていた。
「ツメクサのためにそろそろどこかギルドに定住しようと思っていた。探索中はやむを得ないが、人手があったほうが面倒も見やすいだろう」
そう言って丸い背中を撫でるパトリックを見て喉の奥まで出掛かった言葉を僕は飲み込んだ。まだ、そんなことを聞かない方がいい気がした。
「さて、ツメクサも寝たし俺は部屋に戻る。よろしくな、リーダー」
パトリックの背を見送り、先ほど言おうとした言葉を反芻する。パトリック、その子の母親は?
スプートニクに肩を叩かれるまで、しばらくその意味について考えていた。
窓の外は月明かりで柔らかく明るい。真夜中だというのに、いや真夜中だからこそ双子の月は白銀に輝いていた。
「スプートニク」
なんでしょうか、と眠たげにスプートニクは僕の髪を撫でた。灰色の僕の前髪がゆるやかに視界に入る。スプートニクとこうしてベッドの中にいると、彼の紅梅色の髪と僕の短い髪が混ざっていくような気がする。
「……なんでもないよ、呼んだだけ」
そう嘘をついてスプートニクの逞しい胸を抱き寄せる。暖かな体温は僕よりいつも少しだけ高い。不安に冷め切った身体が触れ合うところから暖まっていくのを感じる。
スプートニクと抱き合うと、無いはずの耳……顔の横に付くアースランの耳ではなく、もう一対、頭頂にあったはずの長い耳が疼く。セリアンの兎の耳は、子供の頃に断ち切られたはずだった。今は髪に隠れた傷跡のみがその証になっている。スプートニクの不思議なほどに甘い香りを鼻腔に感じると、かつてあった耳の先が毛繕いでもされたかのようにこそばゆい安らぎを覚えていた。
そんなことを知ってか知らずか、僕を腕に包むスプートニクは固く目を閉じたまま微動だにしない。眠っているわけではないそれはいつものことで、僕はそれに安心感を得ていた。僕だけのブランケット。僕の犬。
「……おやすみ、ハイネ」
スプートニクに本当に言いたかったことは、ほんの些細なことだった。「明日から、二人きりじゃなくなるんだね」そんな答えのない呟きだったから、僕は唇の端で言葉を溶かし瞼を閉じた。
翌朝から僕らは迷宮へ足を踏み入れた。
ホーニヒとボイセンは僕らとしばらく離れていた間にそれぞれの技術を磨いたのか、器用な手つきで死霊を呼び出し戦ってくれた。黒髪の短髪に眼鏡をかけた者と、同じく黒髪の長髪、金髪を後ろに撫でつけた三人の男の姿の死霊は物も言わずボイセンの命令に従う。ホーニヒが炎を放つ度、死霊の男がその身を溶かし燃えていった。ボイセンは冷淡に身振りで命じて死霊の男たちを掻き消しては蘇らせていた。
彼らが何を思って二人に従っているのかはわからない。ボイセンとホーニヒが恋人同士だとは本人の話だった。男同士であることは彼らには些細なことだった。だってそれ以上に、ホーニヒはもう死んでいるのだから。もしかしたら、ボイセンも。
死霊術師の中には、死んでしまった体を繋ぎ止めて新たな命を紡がせる者もいると聞く。しかし、彼らはアイオリスよりもっと遠い世界から漂着した。世界樹の迷宮に挑むのも初めてではないと話していた。遠い次元の迷宮で、彼らは何を見たのだろう。
「リーダー、ここからも素材が取れる。貴重な資金源だ、解体を忘れないようにな」
ぼんやりと物思いに耽っていたところでパトリックの声が響き、我に返った。倒したばかりの樹海の魔物をナイフで手際よく解体するパトリックを見て、見様見真似で皮を剥がす。今までこういうことはあまりしてこなかったように思う。アイオリスの街ではもともと持っていた装備や宝石を切り売りして生活していたし、スプートニクと出会ってからは様々なことを先回りされるかのように任せきりにしていた。
「パトリックは本当に上手だね。竜騎士はこういうことも訓練するの?」
洗浄を済ませ剥ぎ取った素材を袋に詰めるパトリックの器用さに思わず感嘆の声を漏らす。自分の手元を見下ろしてみると古地図のようにぼろぼろになった皮切れがあり、実践経験の差が大いに現れていた。
「まあ、昔ちょっと傭兵やってただけだ。戦場では食えるものは何でも食うし売れるものは全部売るからな」
そう笑ってパトリックは手早く削ぎ落とした肉を串に刺していった。いつの間にか起こした火に翳すと獣肉は香りを立て色を変えていく。
「戦場は面白いことは何も無かったな。俺の手の届かないところで勝手に人が死んで、俺の手の届かないところで勝手に人生が決まる。寧ろ負けた後のほうが面白かった」
そう言って思い出したように喉を鳴らして笑うパトリックは、まるで少年のような悪戯っぽい表情をしていた。欠けてそこだけ空洞になっている犬歯が子供のような笑顔を強調する。もっと聞きたい、とせがむとパトリックは肉を回しながら唇を開いた。
「戦場で出会った面白いやつがいるんだ。敗残兵になった俺は奴と一緒にいろんなところを旅したんだ」
彼と一緒に川を渡り、鎧の中が魚だらけになった話。蜂蜜を取ろうとして大型の虫の魔物に追いかけ回された話。滑稽で珍しい話をパトリックが話すたびに僕は先程まで感じていた不安を忘れるくらい笑って見知らぬ男に思いを馳せた。同時に、パトリックの探索慣れした姿にも納得していた。きっと年齢だけじゃない経験を多くしているから、こんなにも様々なことに対処できるのか。彼はこのギルドを支えてくれるのではないか、そういった信頼感が芽生えていくのを感じていた。
樹海の中だということをつい忘れそうになるほどパトリックの話に夢中になった僕は、宿に戻った後も幾度となくパトリックに話をせがんだ。そのたびに嫌な顔ひとつせず、パトリックは喜劇の昔話を僕に語った。
「そのとき、ブラニーの子供めがけて落石が起きた。あいつの姿が見えなくなって、俺は必死に探したんだ。岩の下からおーい、なんて声がしたときは肝が冷えたよ。岩の影から、子供を抱きかかえたあいつが手を振って出てきたんだ」
そう言って長く息を吐くパトリックに、僕は空気を呑み込んで次の言葉を待つ。その後はどうなったのだろう。子供の親に感謝されたのだろうか。礼は要らないと去っていったのだろうか。どちらにしても、彼には似合う姿だと思った。
「……それで、終わりだ」
唐突に突き放された言葉に、思わず目を見開いた。
「えっ……?その後は、その子はどうなったの」
「生きてはいるさ。……この話に続きはない」
どこか遠くを見るような目つきに、僕は覚えがあった。大人が「ここから先は君には見せられない」と目を塞ぐときの顔だった。夕食のチキンを用意するために手斧を持ったときの父の顔。僕の兄と母に起こったことを話していたときの父の顔。
「今日はここまでだ。明日も早いんだろう、もうおやすみ」
そう言って僕の寝間着の肩を叩くパトリックに促され、僕は釈然としない思いを抱えながら宿の談話室を後にした。
部屋に戻ると、スプートニクが照明もつけず何か不思議な機械を覗き込んでいた。テンタイカンソクキ、だと以前に話していたかもしれないその機械を覗く横顔は、知らない大人の彫像のような顔をしていた。
「……パトリックのところにいたんですか」
顔を重たげに上げてスプートニクは僕のことを見る。薄暗い部屋にチカチカと機械のランプが明滅し、スプートニクの頬を赤や緑に規則的に照らす。
「……冒険者として、先に進んでいた人の話を聞いて何が悪いの」
責められるような口調に反発してしまったのか、自分が思ったよりもずっと強い口調が出たことに驚いていた。咎められるようなことは何もしていないのに、咎められたと自分が思ってしまったことに小さな針を飲んだような痛みを感じていた。
「貴方はまだ弱く儚い。パトリックは女性に対してあまり信頼のおける男ではありません。彼の妻のことも……」
「僕が女だって知ったら、パトリックは軽蔑するとでも」
胃の中がむかむかと煮え立つような感覚があった。僕の性別を隠すよう提案したのはスプートニクだった。僕を守るためにあらゆる手段を尽くすという忠犬は、ときに僕のことを制限する。それに、パトリックの妻のことをスプートニクが知っている風な口ぶりなのも腹が立った。ツメクサの母親のことを、パトリックはまだ一度も話してくれなかった。聞こうとしなかったわけではない。ただ、言葉を選んでいるうちにパトリックの薬指の指輪から感じる無言の圧力に身じろぎをしてしまっていた。僕では超えられていない壁をスプートニクがいつの間にか超えている、そのことが心に皺を作っていた。
明くる日は樹海での探索だった。
木漏れ日の中の緑は、幾人もを呑み込んだとは思えない穏やかな様相で僕らを誘う。
先を行くパトリックのコートの背に刻まれた竜の紋章は歴戦を語るように掠れ擦り切れている。一体ここまでになるまでに幾ら戦いを重ねればいいのだろう。彼の人生の一部がそこに表れているようで、彼の背負うものの違いを肌で感じていた。
「パトリック」
何戦かした後、僕らは幾ばくかの休憩を入れることになった。岩に腰掛け、銃の手入れをするパトリックにそっと声をかけた。
「なんだ、リーダー」
「パトリックは……結婚しているの」
それは、彼と出会ったときからの疑問。今も左手に輝く彼の指輪は、僕の瞳に強く突き刺さっていく。
「……どう思う」
目線も動かさず、パトリックは僕に問いかけた。焔のような橙の瞳が、静かに手元の銃へ向けられている。
「どうって……その、指輪もあるし子供もいるのに、奥さん、見たことがないですから」
「そうだ。別れた」
「……どうして」
「愛されていたから、別れたんだ。……俺の歯、一本折れているだろう、これは俺の嫁がやったんだ」
不意にパトリックは歯を見せて笑った。寂しく、哀しいその笑みは、左犬歯の辺りの空洞から心が抜け出てしまいそうな笑みだった。
女ってのは怖いんだ。寂しくさせると簡単に狂う。
そう呟いて、パトリックは緩やかに語り始めた。
彼の元妻……ツメクサの母親に当たるブラニーの女性は、最初はごく普通の幸福な伴侶だった。しかし、産褥の苦しみから、次第に彼女は狂っていった。
彼女のほんの些細な癇癪の度に、食器や家具が宙を舞い、そしてある日パトリックの歯を折った。
娘にはその手は及ばなかったが、時間の問題だとパトリックは感じていた。何よりも、ツメクサの身を守らなければ。そう思ったパトリックはツメクサを連れ、家を出たそうだ。
「パトリックは、奥さんのことが嫌いに、なったの……?」
「……いや」
恐る恐る、彼の話から感じたことを問う。僕には、彼が元妻に憎しみを抱いているのではないかとう疑念があった。しかし、パトリックは……長く息を吐き、そして……今までに見たこともない、柔らかな笑みを浮かべて呟いた。
「愛していたよ」