Ⅳ ボイセン
アルカディアの浜辺に漂着したときに俺が歌っていたのは、他に何もできなかったからだ。
長い長い間、時空の狭間を彷徨っていた気がする。
体などあってないようなものだったから、動かし方も忘れていた。ただ、喉の震わせ方だけは覚えていた。震える声帯だけが、その肉体があるということを教えてくれた。
この世界には、肉体がある。
浜辺で俺たちを見つけた少女……ハイネに手を差し伸べられて、手があることに気がついた。
身を起こそうとして、胴が、足があることに気がついた。
ハイネは傍らに横たわるホーニヒについて何も言わなかった。
人型でありながら翼を持ち、鳥の足を持つ異形の肉塊。それが今のホーニヒだった。
ただ彼女はこう言った。
「ねえ、もっと歌を聞かせて」
他に何もできない俺は、飽きることなく即興の旋律を歌った。海鳥の鳴き声と、波の打ち寄せる周期的なさざめきを伴奏にすれば、楽器は要らなかった。
喉を震わせ旋律を奏でているうち、俺たちの周りには何か不定形の存在が集まっているのを感じた。それは、かつてよく慣れ親しんだ死の香りがした。
集まった死の香りは、傍らのホーニヒの体を緩やかに包んでいた。
自分は知っているはずだ。彼らの……死霊と呼ばれていると後に知った……操り方を。根拠は無かったが、身体の何処かが勝手に彼らを求めて動き出していた。
ホーニヒの肉体を、集まってきたエネルギーで満たすと、ホーニヒは緩やかに瞼を開けた。菫色の瞳は濁った色をしていたが、そのまま死霊を注ぐにつれ、輝きを取り戻し澄んだ光を湛え始めた。
逆回しの映像を見るかのように、翼は身体に吸収され異形の脚は骨を、肉を得て人のような滑らかな曲線へと姿を変えていった。
「君たちは、どこからきたの」
ハイネは、ホーニヒの変化に驚きもせずただ今日の天気を聞くような調子で俺たちに尋ねた。
ホーニヒは、目覚めの微睡からまだ覚め切っていないのか緩慢な動作で黙って空を指さした。
「じゃあ、僕と一緒だね」
見上げる先には、白銀の月が二つ浮かんでいた。
やがて、俺のこの能力は死霊術師としての力だと知った。
ハイネの誘いで俺とホーニヒは彼女のギルドに籍を置くことになった。彼女とやり取りをするうち、気が付いたことが幾つかあった。
俺のこの喉からは、声が出ていなかった。
当然だ、記憶では、ホーニヒを死から蘇らせるために捧げたはずだったのだから。
彼女もまた特別な耳を持っていた。断ち切られたと本人は話していたが、おそらく脳かどこかの作りが元より違うのだろう。ホーニヒにも聞こえない俺の歌声の波長を彼女は聞き取れていた。
そして、言葉の代わりに死霊をホーニヒの身体と共有することを知った。死霊の活量を満たすことで、ホーニヒは人の身体を保つことが出来ていた。
俺とホーニヒがアルカディアというこの世界で受けた肉体は、ルナリアと呼ばれる種族のようだ。長命で、形のない熱量を操作する才に長けた者たちだとハイネは話してくれた。君たちの身元はないけれど、ルナリアの里は遠い北方にあるから知人がいなくてもこの地域では不思議なことはないだろうと安堵していた。
ハイネは、少女でありながら常に少年の姿をしていた。その事情は聞かなかった。スプートニクという獣耳の彼女の同居人から、そのことについては触れないで欲しいとの願いがあったからだ。
少年のような姿の少女。それはとても見覚えのある姿だ。……魂を共鳴しながらも道を違えた彼女。……兄を奪った人のことを。
俺は朧げな懐かしさを覚えていた。彼女と共に過ごした時間は、もう遥か遠い次元の話だった。
……俺は、失ってばかりだった。
俺の母は、姉の夫に恋をした。
決して果たされることない恋の行方に産み落とされた俺は、罪の果実だった。
母は呪術師だった。自分の姉と愛した男を呪い殺すと、愛し子の俺に呪術の才を押し付けて目の前で首を吊った。
俺を育てたのは嗄れ声のカストラートだった。彼は俺に、生きる術と称して金の得方を……人の殺め方を教えた。端麗な容姿を武器に、歌声に織り交ぜた呪言を凶器にすることを教えた。
数えきれないほど殺した。
幼い孤児を刃として研いだ男はやがて俺によって復讐を遂げ、そし研いだ凶器を捨てた。
腹違いの兄だけが残った。しかし、彼は全霊で一人の少女を愛していた。少年のような彼女を追い求め得た兄は、彼女に捧げた術式の毒が回りこの世を去った。
ホーニヒだけが救いだった。
もう喪うことは許さない。
死すらもホーニヒを奪わせない。そう誓って俺は天の城の扉を開けたはずだった。
アンデッドキングを燃やし尽くしたホーニヒの肉体は、無彩色の炭と灰の塊になった。どこが手足かもわからなかった、それどころか、灰芥と化し消えゆくアンデッドキングとの境界ですらも曖昧だった。
ホーニヒは戻らないのか。こんなところで、こんなことのために、ホーニヒはまた俺の元を去るのか。
酸素が失われた肺で喘ぎながら、ホーニヒの灰をかき集め幾度も死霊を注いだ。普段唇を寄せ注ぐときには、確かに恋人の身体は潤い活力を取り戻していく姿を肌で感じていた。しかし、鉄が水を吸わないように、今はただ宙を掴むが如く手応えもなく死霊はすり抜け狼狽したように虚空を彷徨っていた。燃やし尽くされ損ね帰るべき肉体を失った死霊は所在なさげに虚ろに霧散していった。
仲間たちは、何が起きたかを次第に理解していった。真っ青な顔で身体の傷を押さえ呆然とホーニヒのいた場所を見つめるハイネ。目を見開き唇を噛むスプートニク。そして、目を伏せアンデッドキングの遺した指輪を拾ったのはパトリックだった。
「これが彼女たちの捜し物か、リーダー」
パトリックは顔色の悪いハイネの肩を叩き、眼前に指輪を差し出した。震えたままハイネが力なく頷くのを確認すると、取り出した布に包み懐に指輪を収めた。仲間の喪失に打撃を受けた面々を見渡し、パトリックはハイネの肩を掴んだ。
「起きろ、リーダー。ホーニヒは何のために燃えた?このままここで呆然としていても何も変わらない。お前は失血死するし他の仲間も怪我が悪化して死ぬだろう。考えろ。今すべきことはなんだ?」
その言葉を聞き、ハイネの紅い瞳がはっと見開かれた。一人また一人とおぼつかない足取りではありながら立ち上がり街へ戻る支度を始める。ホーニヒを失ったことを噛み締める暇もないまま、俺も引きずられるかのように街へと戻っていった。
街へ戻ってから、何を思考していたかよく覚えていない。喪失したということ。それは慣れるどころか同じ傷跡を何度も撫でられ深くより強い痛みとして神経を絶っていった。
何時間、何日部屋に閉じこもっていただろう。
時間の感覚すら曖昧で、だから初め来訪者のノックにもすぐには反応できなかった。
部屋を訪れたのは、赤毛を撫でつけた良く知る男だった。パトリックは扉を閉めると、薄暗い部屋を一瞥し視線を合わせた。
「ホーニヒを取り戻したいか」
夕陽色の瞳が爛々と光を湛える。囁きのようなその言葉は、しかし凍り付いた俺の心臓に鼓動を取り戻すには十分だった。
「これはホーニヒの灰だ。そして、こっちはあの化け物が持っていた指輪だ。リリに返す前にちょっと拝借した」
小さな包みの中から、金属の輪と細かな粒子が詰められた瓶が現れた。これが、ホーニヒなのか。小さく軽くなってしまった姿にまた胸に錘が落ちる。
「俺の祖父は、滅びを否定する呪いを魔女に受けた。俺の祖母はその魔女だ。呪いは子に孫に……俺に、受け継がれている。ホーニヒは魔物だ。琥珀の森にいる化物や、お前たちのいた天に続く世界樹の魔物たちは復活の祝福を受けている。魔女の孫の……俺の血と、復活の祝福の琥珀と、魔物であるホーニヒの灰。これを、あの死体の王の指輪で繋ぐ。……やってみる価値は、あるだろう」
気が付くと、俺はパトリックの腕を強く掴んでいた。ホーニヒを取り戻すためならなんだってやる、そう声の出ない喉で叫びながら、力を込めて頷いていた。
禁忌の術なんてとうに犯している。一度で駄目ならば、何度だってやり直したい。
「ボイセン、俺は捜しているものがあるんだ。俺の願いを、聞いてくれるよな?」
猛禽の瞳がぎらりと色を変えた。縋りつくような俺を見下ろすパトリックの紅い髪がゆらりと宙に揺れた。
「ノーシュという男の、死霊を呼んでくれ」