オルドリンさんを連れ出すようになって暫く経つ。あんなにもアポロが意気地になって閉じこめていたのに、今や立派な戦力として樹海攻略の一員となっている。彼女の怪我が治ったこと、彼女に使役する獣が戻ったこと、理由は何個かあるが結果としてオルドリンさんを繋がれてもいないが自由でもないなんとも奇妙な状態に置いていた。
オルドリンさんのことになるとアポロは冷静さを欠く。自分にはそれがどうも危なっかしくて仕方ないが、ヨハネには好ましいことらしい。
大切なものが自分の外にある人間は誇り高く美しい。
そう言って兎耳のギルドマスターは笑っていた。アポロの大切なものが一目瞭然でオルドリンさんなら、ヨハネの大切なものはなんだろう。そんなことを尋ねてみても返ってくるのは細波のような笑みだけだった。
自分はこのギルドでは一番の新参者だった。自分が来たときには既にオルドリンさんは倉の中にいたし、ヨハネもアポロも……ノアも、仲間意識のようなものが固く結ばれていた。
ノアは俺の兄だった。敢えて過去形として表したい。今のノアを兄とはあまり言いたくないのが本音だ。
この世界……魔法なんてものがあるこの世界に来る前に最後に覚えていたものは、転がる自分の目玉だった。
死んでも蘇るはずの世界樹に挑み、ノアは帰ってこなかった。
二番目の兄から、家出した三番目の兄の消息を聞いたのが数年前。アスラーガという街から旅してきたという二番目の兄、ブライトは三番目の兄と入れ違いになったと話していた。
「騎士にもならず家を出るような愚弟のことは気にも止めなかった」
ブライトは、単身でアスラーガの世界樹に挑んだノアを止めなかった。どうせ死んだって、返ってくるから。
俺はアスラーガで待っていた。十年以上も前に家を出た兄に、聞きたいことがいっぱいあった。しかし、何年待ってもノアは降りてこなかった。だから砦の様子を見ると嘘を言って、一人で探しに行った。
死因はなんだったのか。それすらもよくわからない無惨な死に方だったはずだ。目の前で転がる自分の眼球を見て、彼女もいないのに最期の時に見つめ合うのが自分の瞳になるとはまさか思わなかったなとつまらないジョークが頭に浮かんだ。せめてもっと好い人の瞳を見つめて死にたかった。死ぬ前に浮かぶ言葉はお母さん、でも死にたくない、でもなかった。
そして、俺はアルカディアに落ちた。
「誰が名付けたかは知らないが、ここはアルカディアと呼ばれているし俺もそう呼ぶ。アルカディアへようこそ、ディエゴ」
ぼろ切れのような俺を拾い上げた人は、探し求めていた兄の声をしていた。
結局、片目は前の世界に置いてきてしまったらしい。同じように飛ばされたノアはもう少しマシな死に方だったから五体満足なのだと言った。どんな死に方だったのかは聞かないことにした。
そして、行く宛のない自分を銃が使えるという理由でギルドに誘った。まるで待っていたかのように欠員が一名あった。
だから、アポロがオルドリンさんとどういう切っ掛けでこんな関係を築いたのか俺は知らない。監禁しているのはアポロなのに、怯えているのはアポロの方に見えた。オルドリンさんが、アポロにはまるで紅茶に溶けて消える砂糖菓子のように見えているんじゃないかと思っている。彼女は血も通い、中身の詰まった一人の女の子だとアポロが一番よく知っていなければいけないのに。
月の遠い夜のことだった。
いつものようにカードを持って、ギルドのメンバーの目を忍んで、彼女の待つ倉へと足を早めていた。
外扉を開けたところで、違和感に気が付いた。二重扉の内側が細く開いている。内扉の前でその違和感に立ちすくんでいると、倉の中から小さく声が聞こえた。
「痛くない?……また、すぐに楽になるようにするからね」
見知ったその声は、アポロの声だった。先駆者の存在に、引き返そうかととっさに考えたが足が動かない。それは、細い扉の隙間から見えてしまったもののせいだ。
オルドリンさんの白い肌にはなにも纏っておらず、窓からの月明かりに照らされている。床に敷かれたカーペットに横たわるオルドリンさんの足下にうずくまる黒髪はアポロのものであるはずだ。彼女の豊かな乳房を認識し、胸の鼓動がどくんと跳ねた。
「う、んあっ……あっ、あっ、あうっ……」
押し殺した喘ぎが内扉の外に漏れ聞こえる。
白いシルエットが小さく跳ね、すがりつくようにアポロの髪を掴む。
これは情事だ。そう殴りつけられるように認識させられ背中に冷たい汗が流れる。
「あっ、や……はうっ……きゃ、うっ」
たわわな乳房が身を捩る度に弾み、桜貝のような乳頭がぴんと張ったまま宙を揺らぐ。自分は今まで女性と性交渉を持ったことがなかった。恋をしたことはあったとしても、その恋が実ったことはない。そして、そんなときはきっと来ない気がしていた。
そして、今も。
「アポロ……、う、あっ……アポロ…」
オルドリンさんに対して抱いていた感情は、恋だったのだろうか。
胸の中でくすぶる気持ちは次第に酸素を与えられ火勢を増していく。男に抱かれる彼女を目の当たりにして、指先に血が巡っていく。喉を流れる唾液は熱く口内を湿らせる。下半身に血が集まるのを感じながら、俺は一歩も動けずにいた。
仲間の腕の中で悶える彼女を見て、この淡い感情に名前が付いてしまった。
……一瞬、アポロと目が合った。
アポロの偏光の瞳がぎらりと光った気がして、身じろぎをした。いつの間にか扉に釘付けになっていた自分に気づき、心臓が飛び出るほどの鼓動が襲い来る。
逃げ出すように扉を後にし、自室まで駆け込んだ。
ベッドの上にうずくまり、自分の愚かさを恥じる。
初めての恋は、三つ編みの似合う清楚な女性だった。優しくて、出会ってすぐに兄弟達皆彼女のことが大好きになった。俺も例外ではなく、彼女を好きになった、ただし……親愛ではなく、恋愛として。
恋は実らなかった。彼女は初めて出会ったときから実らないことを約束された恋だった。……彼女は、兄の婚約者だった。
婚約者を紹介するブライトは、珍しく笑っていた。いつも気難しい優秀な兄が照れたように横の女性と寄り添い合っていた。緊張と高揚で紅く染まった彼女のその横顔がとても美しかった。
オルドリンさんへの気持ちに気づかなければ良かった。あんな白い肌で、あんな高い声で鳴くなんて聞きたくなかった。アポロの腕に抱かれるオルドリンさんは、苦しいほどに艶やかで胸が締め付けられる。
高ぶった自分を慰めながら彼女の喘ぎを夢想する。そして、アポロの横顔も。彼女はアポロのものだった。きっと、心も。高ぶりを締め付ける指はオルドリンの柔らかい体であるし、この自分の身体はアポロの身体だった。擦り刺激する速度を速め快楽に浸る。彼女の横顔に触れたい。違う男を映す金の瞳を見つめていたいと強く願っていた。
吐精の脱力と共に、オルドリンさんへの思慕が襲い来る。
彼女とアポロの関係に気づけなかった自分の浅はかさが嫌だった。彼女はアポロによって養われている。だから、二人の間には特別な感情があるとは思っていた。
しかし、アポロには手は出せまいとは思っていた。彼には潔癖性なところもあるし、何よりオルドリンさんのことを脆く崩れやすいガラス細工のように、清らかな乙女として神聖視しているとずっと思っていた。自分の幼さが恥ずかしい。ブラニーとして幼い外見のアポロにそんなことが似合わないとたかを括っていたところもある。
今日はもう眠ろう。良くないことばかり考えてしまう自分に嫌気が差す。
来ていた服もそのままに、泥のように意識は眠りに落ちていった。
翌朝は探索だった。
第三階層の墓所。
夜更かしの代償として寝不足の目を擦りながら、俺達は不気味な回廊を歩んでいた。
「しっかりしろよ、ディエゴ。それとも骸骨が怖いのか」
「う、うっせーよノア兄!ノア兄こそ、一人でふらふら骸骨をナンパしたりすんなよ」
ノアと眠気覚ましの軽口をたたきながらも、警戒の目であたりを見回す。
天井からの光の筋。見たところ特別に変わったところはないただの光のようだが、その光であの恐ろしい骸骨騎士が退治されることを俺達は知っている。
土の下から這い出る骸骨騎士。先日は命からがら逃げ出したが、次に対峙したときに倒せる保証は全くない。だからこそ、目を光らせる必要があった。
欠伸をかみ殺し、先頭を任された重荷に負けないよう必死に自分を鼓舞していた。
どうも集中できないのは、眠気だけではなかった。
オルドリンの姿を見ると、昨夜の姿が脳裏にちらつく。
アポロの手で鳴くオルドリンさんの姿。アポロの偏光の瞳。あの後アポロから何も咎められることがなかったのは、遠回しな口止めだろうか。
オルドリンさんが後ろを歩く。彼女の視線を感じているような気がして、思わず背中に冷たいものが走る。オルドリンさんには気づかれていなかったはずだ。仮に見られていたとしても、彼女は人の区別がつかない。こんなことにほっとする自分が嫌だった。
「ディエゴ!敵襲だ!」
先頭を歩くヨハネの叫びに、あわてて戦闘態勢を取り駆けだした。ヨハネの瘴気兵装が展開され、ノアが先制の打撃を棺桶のような魔物に浴びせる。
奇声をあげて打撃に悶える棺桶から、亡者の塊のような不気味な内容物が飛び出ては生存者に襲いかかる。稚拙な攻撃でも、圧倒的質量で殴られては大きな負傷へと繋がる。
何度も盾で受け止めるも、じわじわと殴られていく衝撃で体力が削られて行くのを感じていた。
「アポロ!支援を頼む!」
背後に構えているはずの薬草士なら、痛みを麻痺させる薬効を調合してくれるはずだ。そう期待して振り向いた瞬間、心臓が矢を打たれたように跳ねた。
……後ろに誰も、いない。そう、後衛に陣取るはずのアポロとオルドリンさんがいなかった。もっと正確に言うと、取り残されていた。視界の先に骸骨騎士に行く先を塞がれているアポロとオルドリンがいた。
目の前が真っ暗になった。残されたハーバリストと、ハウンドの少女。オルドリンさんは賢明に矢を放ち牽制し、鷹が何度も骸骨騎士の動きを止めようと体当たりしているが、まるで効いている様子はない。気が付いたときには、俺は駆けだしていた。
骸骨騎士の血に染まった剣がオルドリンめがけて振るわれた瞬間、盾をかざすのも忘れ彼女の元へ飛び込んでいた。
脇腹が熱い。鼻の奥から鉄錆の味がして間もなく粘度の高い液体が口の端からごぽりと溢れた。これはきっと肺にも刺さっているだろう。揺らされた脳は幸か不幸か身体の痛みをうまく伝えられず神経が混線しているようだ。だいじょうぶ、このくらいならまだ死なない、そう喋ろうとして口の中からまた血を吐き出した。
「ディエゴ!!逃げるぞ!!」
身体が持ち上がり気道に溜まった血が一気に流れ出る。新鮮な酸素を求め笛のような音を立てて呼吸とも呼べないものを条件反射的に行っていた。
オルドリンさんは、彼女はどうなったんだ。
骸骨騎士に狙われていたのは彼女だったはずだ。自分が防いだのはたった一撃。彼女は逃げ切ったのか。
「ノ……ア、オルド、リ、ンさんは、ぶじ、か」
いつの間にか身体の揺れが止まっている。墓や枯れ木に囲まれた地面に身を下ろされ血の滴がゆっくりとその面積を広げていく。
「オルドリンはヨハネが加勢している。ノアも君を運んですぐ二人のところに戻った。僕はアポロだ」
アポロの背負ったハーバリウムに光が乱反射して眩しく煌めく。金属とガラスの擦れる音と共に香りが広がり、次いで脇腹の傷口に冷たい精油が浴びせられた。
細胞が灼かれるような痛みに悲鳴を上げのたうち回る。槍で射られた魚のように痙攣する身が何度も地面に叩きつけられた。
「沁みるのは一瞬だ、直ぐに固まって傷口が塞がる。あと苦しいところはどこだ」
言葉も出ずに震える指で胸を指さすと、アポロは頷きハーバリウムに袖を突っ込む。肘まで濡れた腕で一握の花を掴むと、もう片方の手で鎧をかき分け傷口に擦り込んだ。
「ぐ、ああああっ!!あ、が、あっ……はあ、はあ、はっ……?」
血が沸騰するような痛みに神経が粟立つも、波が引くように熱が冷めていく。出血が止まったのか溢れ出る口腔内の血もなんとか呼吸が出来る程度には収まっていた。傷口が冷たく麻痺していくのが気持ちいい。痛み止めも兼ねているのか、揺らされた脳に緩やかに鎮静作用の薬効が沁みていく。
「アポロ……オルドリンさんのところにいなくていいのか」
「ディエゴ、喋るな」
「オルドリンさんは今も戦ってるんだ、側にいたいだろ……」
「ディエゴ!!」
アポロに似つかわしくない大声。それが自分に向けられたのだと、一瞬認識に時間がかかった。
「……自分の怪我を見てから、言うんだ」
自分を見下ろすアポロの瞳には、透明な滴が溜まっていた。
「さっきまで死ぬかもしれなかったんだ、そんなときに見放したら薬草士……いや、仲間失格だろ!」
でも、と心の中で反響する。
間違いなく、アポロはオルドリンのためなら何でもする。アポロは当然恋人であるオルドリンを守りに行きたいはずだ。
「アポロは、オルドリンさんの恋人なんじゃ……」
「僕はオルドリンの何でもないんだよ!」
「……は?」
涙を流しているのはそのままに、顔をいつもより紅く染め叫ぶアポロ。
突然の告白に呆然と見上げている俺を無視し、アポロは嘆きを顕わにする。
「僕はオルドリンを愛しているさ、でも釣り合わないんだ。あんな気高い彼女を僕がどうこうできるか!? オルドリンは、普通じゃないんだ。彼女は美しくて、汚れない少女なんだ。僕みたいなブラニーのなり損ないには……ふさわしくないんだ!」
「でも、昨晩君たちは……」
「あれは、治療だ……オルドリンは、まだ男を知らない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中を一筋の冷たい風が流れた。何故だろう、思い人がまだ他人の女になっていないという事実を知ったのに、心に寂しいような切ないような感情が取り残されていた。
何を言おうか考えあぐねていたところに、ガサガサと多人数の足音が近づいてきた。
「ディエゴ!アポロ!無事か!!」
聞き慣れた声とともに、ヨハネが駆け寄ってくる。身に纏う血の霧のような瘴気がまだ霧散し切れていないところからも、つい先ほどまで激しい戦いをしていたということが想像できる。次いでノアとオルドリンの姿を見、一気に安堵の溜息を吐いた。
「オルドリンさん、無事だったんだ……よかった……」
あの瞬間、庇って良かった。大きな傷も無さそうに見える。緊張の糸が解けたからか、急に薬草を詰め込まれた傷口が激しい疼きとともに自己主張を始めたようだ。傷ついた細胞と復活していく細胞が鋭く冷えて神経に痛みを乗せる。
揺らぐ視界の中、オルドリンの金の瞳がとても美しく煌めいた。
目が覚めると、そこは自室のベッドの上だった。
夕日が眩しい。カーテンを閉めようと身体を動かそうとして、ずきりと脇腹が疼く。
そうだ、俺はあの墓所で身体を貫かれたのだ。薬草の麻酔でなんとか耐えて、その後何か大切な話をした気がする。あの話の続きを、しなければならない気がする。
「アポ……ロ」
「ごめんなさいね、ここにいるのがアポロじゃなくて」
譫言のように呟いた名に呼応したのは、銀の鈴のような密やかな声。
「オルドリン、さん。……どうしてここに……?」
真珠のような偏光の髪を揺らし、窓辺に座ったオルドリンさんは目を細める。
夕日に照らされた名画のような美しさに、心拍が少し速くなった気がした。
「……私がいさせてほしいと頼んだの。……貴方は、私のために傷ついたのでしょう。もうこういうことは嫌なの」
長い睫毛は西日に照らされ顔に影を落とす。そんな顔をさせるために庇ったんじゃない、そう言いたくて身を起こそうとしふと疑問が頭に浮かんだ。
「アポロは許したのか、俺みたいな男と二人っきりなんて」
「二言目にはアポロ、アポロなのね。……彼は私の保護者でも何でもないのよ、私はただのお人形」
まただ。この否定の言い回しに強い既視感があった。そう、墓所でアポロと話したときも同じことを言っていた。あのときも、アポロはオルドリンとの関係を否定した。強い嘆きと共に。
この二人に対するもどかしさの正体はこれだ。アポロもオルドリンさんも、お互いに自分を人として見ていないと思っている。アポロからのオルドリンさんに対する行動は確かに空回りをしている。だから、俺はオルドリンさんが苦しんでいるのだと感じ自由の身にすることを望んできていた。でも、オルドリンさんからもアポロに対しては空回りをしているんじゃないだろうか。どう接していいのか、お互い薄皮一枚隔てたまま触れ合っているようだった。
「そんなことは、ないと思う。アポロだって、オルドリンさんのことは真剣に……」
言葉が途中で詰まる。それは、オルドリンの輪郭が突然色濃くなったかのような気配の強さによるものだった。
今までの繊細で華奢な雰囲気とは打って変わって、激しい感情の波が彼女に打ち寄せていた。声はもう出ない。激しい波の中一人立つかのような彼女に圧倒されてしまった。
「真剣になられたくないのよ。私はもう、誰も見たくないの」
笑顔も、怒りも、涙も。そう続け、オルドリンは背を向けた。彼女は、人の表情がわからない。人の区別もつかない。そうアポロから聞いたことを思い出す。恐らく、心に深い傷を負ったことによる脳の障害だと。
「貴方に話してあげるわ。貴方がもう私を庇わないように」
「私は、恋人を殺したから壊されたのよ」