眼鏡を外しておくべきだったな、と今更ながら思った。
マンションのインターホンが鳴る。合鍵のカードキーは渡してあるのだが、いつも正直にオートロックの解除を頼んでくる。
ロックを開けてあげると、両手いっぱいのレジ袋を提げた笑顔がひとつ。自分はそれに、「どうぞ」と招く。
「これは新発売のコーラで、ピザも安かったんで一番でっかいやつと、それとそれと……」
と、ローテーブルの上はちょっとしたホームパーティのような様相になる。
「わざわざ買ってこなくても、ストックなら沢山用意しているよ」
「でも、これめっちゃおいしそうだと思ったんす!だめ、でした……?」
と、風船がしぼむ様に声が萎れていくものだから、思わずくす、と笑みが零れてしまう。
「そんなことないよ。一緒に味見して、足りない分は冷蔵庫から出そうね」
そう言いながらソファに手招きすると、はい!とまた瞳が輝いて飛び込むように隣に座った。
インターネット配信サービスでお気に入りの海外のバラエティ番組――アメリカの恰幅のいい料理人があり得ない料理をする番組だ――を見て。けらけら笑う彼の横でピザを一枚、二枚、三枚とぺろりと呑み込んでいく。煉瓦みたいな肉や塊のバターに大笑いする彼を眺めながら食べる食べ物はいつもよりいい気分になれる。
ふと、隣の彼の笑い声が静かになった。
液晶を見ていた彼は、何故か自分の方を見てなにやら真剣なのか悩んでいのか判別のつきにくい表情をしている。
「あの、……えっと」
「どうしたの?」
と、指についたチーズを軽く舐めてペーパータオルで拭こうと手を伸ばす。彼は顔を片手で覆い、うう、と困ったような声を洩らした。
「その、それ……その、おいしそうの、逆って言うか……」
何を言っているのかはよくわからないが、様子が変なことくらいわかる。
いや、ここ最近たまにこういう状態になっていることは知っている。おおかた自分がよく食べることに未だ慣れてないのだろうと思っているのだが。
「どうしたの?近頃やたらとこういう顔するよね」
ざく、と図星を突かれたように赤い瞳が揺れる。唇が真一文字に引かれたり、むやむやと何か言おうと解かれたり忙しい。
「あの、実は、えっと」
「言いたいことあるなら言いなよ。よっぽどじゃない限り怒らないから」
「……怒らない、すか……?」
見下ろす瞳は、許しを請う子犬の目だ。
「怒らない怒らない。駄目なことはちゃんと駄目だよって言ってきたでしょ」
「……その、じゃあ……」
「俺、崎保さんがめっちゃ好きで……」
「そうだね」
「好きで、ぎゅーってするのも、頭撫でられるのも好きで」
「そうだね」
「でも、最近崎保さんに、その、なんか……」
また俯いて、しょんぼりと声が小さくなる。困った子犬だ。と思いながら言葉の続きを促す。
「最近の俺に、どうだって?」
「……食べられ、たいっていうか、その」
視線が、自分の目ではなく――もう少し下に。唇のある辺りに。
「きす、してみたいんです……」
彼はなんとかそこまで絞り出すと、耳まで真っ赤に染めて頭を抱えた。
涙目になってるのではなかろうかというほどの決死の告白に、思わず面食らう。
「……ええと、そう。確認なんだけど……他の人にもそう思う?」
ぶんぶんと首を振った。崎保さんだけです、誰にも言ってないです、と震えた声で訴えてくる。
「そう。……わかった、じゃあしようか」
言葉に顔がふっと上がったのを逃さず、ふわふわとした白い髪ごと頭に手を添える。
眼鏡がかちり、と顔と顔の間に当たった。
「……やぁらけ……」
と彼の惚けた声が何度か重ねた唇から零れた。
最初の許しを与えてから、しばらく本人の希望に任せることにした。
しばらく思うようにさせていれば、きっと満足するだろうと思っていたからだ。
唇の柔らかい皮膚を触れ合わせる、小鳥の口づけ。
それをいとおしそうに降らせる彼に、疼くような恋情が胸を刺す。
親愛を勘違いしているのか、それとも。
と、腕に収まるように体を預けたときに――彼の体の欲が、正直に昂っているのを服越しに感じてしまった。
本人は気づいているのかいないのか。熱に浮かされた目で頬や耳にも口づけを落としている。
――それなら、そうしてしまった責任を取ってあげればいい。
きっと、驚いて熱も落ち着くだろうから。
「新納」
小さく、しかしはっきりと呼び。
はい、と返事とともに再び口に触れた唇を――舌で割った。
びく、と震える体にしがみつくように腕を回し、角度を整えながら深く、深くと歯列を開かせる。
味蕾のざらつきを探ると、布越しの興奮は硬度を増す。
頬の内側を舐め。唇を甘噛みし、唾液を混ぜる。
それはさながら、『食べ尽くす』ときのように。
「……大人はこうやるんだよ。覚えた?」
脱力した肩の中で、彼の胸の早鐘を聞く。
これで怖いなら、止まればいい。
別に、それでもいい。彼の気持ちが欲情なのか、親愛なのかも整理がつくだろう。
「……、ください」
どさ、と腕を引き倒されソファに身が落ちる。見上げた肩は荒い呼吸で上下している。
「もっと、全部、ぜんぶ」
切羽詰まった声とともに、抱き締めるように心臓と心臓が重なった。
「食べられたい、一緒になりたい、だって」
ぐり、と昂ぶりが両足の間に押し付けられる。喉を抜ける言葉にならない呼吸が、自分から発せられた。
「新志さんだって、こんなに、なってます」
唇を――今度は互いに、深く絡めながら。
溶解する理性と隆起する愛欲が引き換えられていくのをただ、許すことしかできなかった。